右の手が助けを求めるように空を()き、(こぶし)を握り、ほどけた。

 トシュはしばらく()()いてから、楽しむように開いて(ゆが)んだ青獅子の口に、目力で押し(とど)めようとでもするかのようにぎらつく視線を刺した。もし、この牙が(のど)笛に噛みつこうとしてきたら。

 両腕は左右にまっすぐ伸ばされ、腕に見合うだけ開かされた両足も、同じくぴんと伸ばされて膝を曲げる余地がない。朱塗りの棒は手から離れて、しかし目を向ければ見えそうなところに、転がっていた。獅子が拾い直した宝刀を右小手に突き出してきたとき、(とっ)()に六本目の指にでも変えてしまえば、取り落とさずに済んだものを。

 自分で裂いた二の腕からはだらだらと血が流れ続けている。ともかくも狙い通り毒は流れ出たようで、視界が(かす)むことはなくなったけれども、自然に止まってくれそうにはないし、痛みのせいで集中しづらい。焦って深く切りつけすぎただろうか。

 両腕は左右にまっすぐ伸ばされ、腕に見合うだけ開かされた両足も、同じくぴんと伸ばされて膝を曲げる余地がない。朱塗りの棒は手から離れて、しかし目を向ければ見えそうなところに、転がっていた。獅子が拾い直した宝刀を右小手に突き出してきたとき、(とっ)()に六本目の指にでも変えてしまえば、取り落とさずに済んだものを。

 腕はともかく手は動かせると気がついて、ぐいと左手を曲げて獅子の足首をつかむ。自分の上に倒れ込めとばかり力を入れたものの、獅子は前足をずるりと滑らせてその手を()がし、そのまま手首を踏みつけた。

「く、……」

「見苦しいぞ。往生際の悪いやつめ」

 それからもしばらく抵抗の様子を見せていた青年は、しかしついに足掻くのをやめた。

「それで、どうする」

 強気に言った、そこには、だが、自棄(やけ)っぱちな響きもあっただろうか。

「どうせ〈錦鶏〉の王座には戻れねえぞ」

 本物の国王はもう戻ってきて、偽物が偽物であることはもう知らしめられたのだ。今から告発者がどうなったところで、それは取り消せない。

「大体、あの山の近所であんまりふざけた真似をしちゃあ、あの山の虎将軍の気に障るんじゃないかね」

 これは口だけだ。互いに不可侵の約束をしたと聞いたことを忘れてはいない。そうした約束をことさら交わしに行ったのだから、裏を返せば恐れているのではないかと考えたのだ。あの虎を、または熊と野牛も合わせた三人を。

「時間を稼いだところで、仲間の助けは期待できんぞ。運よく生きていたとしてもな」

 獅子は全く動じなかった。

「おまえ自身が手出しを禁じた」

 あたかも初めて気づいたかのように、青年は目を細めた。無論、そうだ。そうでなくとも、事が片づくまでは現れない。〈錦鶏集う国〉を守っているのだから。

「手を出すなと言ったのは決着がつくまでだ。終われば、あいつは気づく。おまえを野放しにはしねえ」

 自分が敗れた後の話を始めたことにか、獅子は満足げであった。

「そうか、そうか。試してみるか」

 トシュが殺された後で、ジョイドがどう出るかを。

 顔色を変えて、また身を揺する。(もっと)も、先ほどより弱々しかった。敵わないと悟った後の、無駄だと本当はわかっているときのように。

「この、……くっ……」

「一つ、安心させてやろう。あの国からは手を引いても構わん。おまえの望み通りな」

 猫()で声がした。

「あの王よりも貴様に化ける方がおもしろそうだ。おまえの仲間は見抜けるかな?」

 かっとトシュは目を見開いた。にたりと、獅子は笑う。

()(もの)だ」

 言うが早いか右の前脚を振り上げ、トシュの左腕の傷を目がけて振り下ろした。頭か喉に来ることを反射的に警戒したトシュは、想定と違った殴打をまともに受けた。

 言うが早いか右の前脚を振り上げ、トシュの左腕を目がけて振り下ろした。頭か喉に来ることを反射的に警戒したトシュは、想定と違った殴打をまともに受けた。

「がっ……!!」

 前脚が(えぐ)るように傷を踏み(にじ)る。これに流石(さすが)に悶絶した手足が、意図しない強さで勝手に暴れ、――右脚に体重をかけた分だけ、力が緩んだのかもしれない左脚の下から、右手が抜け出した瞬間をトシュは逃さなかった。

 悶絶した手足が意図しない強さで勝手に暴れ、――右脚に体重をかけた分だけ、力が緩んだのかもしれない左脚の下から、右手が抜け出した瞬間をトシュは逃さなかった。

 青獅子の目を盗みながらゆっくりと順々に右手で結んできた、〈神前送り〉の印の残り全部を、今だとばかり超高速で終わらせたのである。

 右手の動きに獅子が気づいて、しかし止めるよりも逃げるよりも、トシュの方が早かった。雷が落ちたような激しい光が獅子を包み、雷が逆流するように地から天を突き刺した――のは真下にいるトシュには視認できなかったが、獅子は一瞬にして掻き消えた。天から巨大な手が下りてきて、鷲づかみにして持ち去ったかのように。

 急に開けた視界の彼方、憎らしいほど澄まし返った青く高い空を眺めながら、はあ、と大きく、長く息を吐き出す。勝った。

 (はりつけ)から逃れる手段がなかったわけではない。小人になるための呪文は一言で済むし、狼の姿に戻るのだってやはり一瞬で済む。何なら、その気になれば単純に、力で押し退()けられただろうとも思っている。が、獅子の油断を利用しない手もないだろう。こういうときのために時折芝居を打っては自分を慣らしているのだし、勝利を確信させたまま引きつけておく方が、きっとずっと楽だった。とどめを刺そうと牙なり爪なり炎なりを振るわれたら、そうも言ってはいられなかっただろうけれども。

 ……退治するつもり、殺すつもりなら、我が身を燃え立たせて焼き尽くしてやることもできたのだ。向こうも炎の術を使うのだし、水の術を心得ていたかもわからないけれど、一撃、試みる価値はあっただろう。それもこれも〈慈愛天女〉に気を遣ったせいだと、青年は自らの信仰対象を胸の内で罵倒した。声に出さずに罵倒しようが声に出して罵倒しようが、どうせ罰は当たらない。まずは悲しむだけ、酷くてもたしなめるだけ、いよいよとなっても見放すだけだ。慈悲深い、優しい、甘い、あの女神に、――心をつかまれてさえ、いなければ。

 天の神々の中で、唯一〈慈愛天女〉だけが〈世界狼〉をかばった――と、一説に云う。(たけ)(だけ)しく荒々しく大地に(あだ)なす狼に、寛大な心で慈悲を垂れ給うたと。畜生め。

 左腕が意識を縫い留めるように、飛び上がりたくなる痛みを伝え続けている。止血しておくべきだろうなとは思いつつも、どっと疲れが襲ってきて、青年はそのまま横たわっていた。当分、縦になりたくない。

 どっと疲れが襲ってきて、青年はそのまま横たわっていた。当分、縦になりたくない。

「トシュ!」

 叫び声が聞こえて、大丈夫だと右手を上げた。否、上げる頃にはジョイドがもう(かたわ)らに(ひざまず)いていて、少々不本意なことに思う。聞こえなかったか動けなかったようではないか。

「トシュ」

「腕だけだ」

 いつの間にか閉じていた目を開けて、要点だけを伝える。動きたくないのは疲労のせいであって、負傷のせいではない。

「動けるんなら自分で何かしなよ馬鹿」

 ジョイドは叱りながら荷物を下ろすと、袖を破って傷口を確かめ、腕の根元を締め上げるように縛った。任せよう、とトシュは再び目を閉じかけたのだが、

 ジョイドは叱りながら荷物を下ろして手当てを始めた。任せよう、とトシュは再び目を閉じかけたのだが、

「何の傷」

 追及するような問いとほとんど同時に、

「ト、トシュ」

 予想していなかった声がして、はたともう一度開く。

「……セダに見せてんじゃねえよ」

 修行も何もしていない凡人を雲には乗せられないのだから、木々の(うたげ)から連れ出したときのように、抱えて走ってきたのだろう。置いてくるわけにもいかなかったということだろうが、現在進行形の流血など、お嬢様育ちと思しき少女に見せるものではないはずだ。

「こっちの台詞(せりふ)だよ。大丈夫、傷自体は大したものじゃない。見かけ倒し」

 修行も何もしていない凡人を雲には乗せられないのだから、木々の宴から連れ出したときのように、抱えて走ってきたのだろう。置いてくるわけにもいかなかったということだろうが、お嬢様育ちと思しき少女に見せるものではないはずだ。

「こっちの台詞(せりふ)だよ。大丈夫、大したことじゃない。見かけ倒し」

「うるせえ」

 そのセディカに向けたのだろう後半に、ぼそりと雑に抗議する。別に二人を(おど)かそうとしてつけた傷ではない。

 セディカに聞こえるからと遠慮してもいられないから、傷を作った経緯はそのまま語った。せめて目を閉ざすのは控えるべきかとも思ったが、結局は自分の疲労を優先する。意識を失ったのではないかとセディカが(おび)えそうではあるが。

「そう、じゃあ、毒のせいで血が止まりにくくなってるのかもしれないな。(ただ)れたりはしてないけど、後でちゃんと診よう。一旦、応急処置だ」

 ジョイドの声を遠くに聞いた。

 血を(ぬぐ)われ、水をかけられ、恐らく水ではない薬をかけられるに及んで、思わず(うめ)き声を立てれば、()みるのは当たり前だとまた叱られる。理不尽だ。わかりきったことだからといって、痛みが減じるわけではない。

 ――ふっと意識が澄み渡ったとき、ジョイドは一番外側に巻きつけた布をぎゅっと絞っているところだった。その下の布のどこかに呪符が挟まって、早くも効果を発揮したのだろう。

 そのセディカに向けたのだろう後半に、ぼそりと雑に抗議する。別に二人を(おど)かそうとしたわけではない。

 セディカに聞こえるからと遠慮してもいられないから、戦闘の経緯はそのまま語った。せめて目を閉ざすのは控えるべきかとも思ったが、結局は自分の疲労を優先する。意識を失ったのではないかとセディカが(おび)えそうではあるが。

「細かいところは後でちゃんと診よう。一旦、応急処置だ」

 ジョイドの声を遠くに聞いた。

 ――ふっと意識が澄み渡ったとき、ジョイドは腕の一番外側に巻きつけた布をぎゅっと絞っているところだった。その下の布のどこかに呪符が挟まって、早くも効果を発揮したのだろう。

「ぐ、う」

「痛み止めちゃんとつけたでしょ」

「今正におまえがダメージ入れてんだよ」

「……ふうん、この効き方からすると呪術も混ざってるかな。起きられる?」

 返事の代わりに、トシュは起き上がった。十分休んだということでもないが、そろそろもう、寝ていたいとも言えるまい。

 順序としてはまずジョイドに何か答えるべきだったろうけれども、その前にセディカが目に入った。トシュが死にかけてでもいたかのような、青い顔と見開いた目と戦慄(わなな)く唇とは、とはいえ予想の範(ちゅう)だが――。

 違和感を覚えて数秒、黒髪に気がついて、はっと自分の腕を見る。

「おい、これ。おまえ」

「思ったより手持ちが少なくて」

 いささか気まずそうな、ジョイドの微笑が答えだった。この腕の一番外側の、傷に直接は触れていない包帯代わりの布が、セディカのベールのなれの果てだ。恐らくはジョイドの、鷹の爪で引き裂かれた。

 一言の相談もなくそんなことになるはずはないが、布が足りないだのベールを使えだのという会話を聞いた覚えがない。と、いうことは――思っていたより、自分の意識は薄れていたのか。

「……トシュは大丈夫だって」

 震え声が呟いた。

「トシュは強いからって……」

「いや、傷一個で済んでるのは大分大丈夫だろうよ」

「いや、これは大分大丈夫な方だろうよ」

 そこは(むし)ろ、獅子顔負けの奮迅を褒めてほしい。やはり殺してしまおう、と途中で方針を転換しなかったことも。

「知らない! トシュなんて大っ嫌い……!」

 叫んで、少女は顔を覆ってしまった。胸でも腹でもなく、二の腕でこれは大袈裟だろうと怪我人は思ったが、どちらかといえば傷そのものより、この何分か意識が不確かだったせいかもしれない。やはり、目を閉ざすべきではなかった。

 叫んで、少女は顔を覆ってしまった。大袈裟だろうと怪我人は思ったが、この何分か意識が不確かだったせいかもしれない。やはり、目を閉ざすべきではなかった。

「泣くな泣くな」

 トシュは傷のない右手を伸ばして、セディカの額に掌を押し当てた。びくんと震えて、少女は固まる。

「機嫌取ってるみてえになるじゃんか」

 手を引いてからジョイドを見やれば、(ずる)いものを見るような顔つきになったものの、仕方ないなとばかりに頷いた。

「ん、見えなくなったね」

「……え?」

「一日くらいは()つだろ」

 トシュは肩を(すく)めた。ジョイドが補う。

「傷痕を見えなくしたんだよ。城に戻ってもみんなにはわからないってこと」

「え……?」

 困惑、というよりも動揺したらしい。しゃくり上げながら、セディカはおろおろする風だった。

「誤解すんなよ、一時(しの)ぎだ。消えたわけじゃない。……きょとんとすんなよ。人に見られたくねえんだろうが」

 おためごかしなことを解説させないでほしい。

「あ、……ありがとう……?」

「詫びに礼はいらんよ。……とか言われちゃ反応に困るか」

 そういう少女だった、と急いで言い添える。

 少女はしばし青年をみつめて、よかった、と呟いて涙を拭った。多分俺が脅かしたねと苦笑してから、ジョイドは真面目な顔になった。

「それで、どうなったの。〈神前送り〉は成功したんだよね?」

 実は本題がまだだった、とトシュは頭を掻いた。その辺りに獅子の屍が転がっていて、結果が聞かずとも知れるわけではないのだ。

「そのことでな、ジョイド。俺の将来のために、一つ教えてほしいんだが。……〈神前送り〉を中断して、結局再開しなかった場合は、詫びを入れた方がいいんかね?」

 予想外だったと見えて、瞠目が返ってくる。

「失敗したの?」

「いや、宛先を途中で変えたんだわ。時間的に余裕がなくて」

 〈天帝〉には〈天帝〉を示す専用の印があるけれど、〈侍従狼〉はそこまでの存在ではないから一字ずつ指文字で綴っていかなくてはならないし、「()(つけ)」を実現するためにも五つばかりの印を並べなくてはならない。が、〈天帝〉のように一つの印で指名できる相手に変えれば、かなり短縮できたということでもある。といっても、〈天帝〉では自分の手には負えなかったわけなので。

 トシュは右手で一つの印を結んだ。

 数年来の相棒は(あっ)()に取られた。

「〈武神〉じゃない」

「それはいいんだよ。途中キャンセルした〈侍従狼〉と〈天帝〉なんだよ問題は」

 間違えない自信のある印を、他に思いつけなかったのだ。思い出したくもない。〈世界狼〉の憎むべき仇敵に(すが)ったなど。

「……そうだね、非礼は詫びておいた方がいいと思う。〈侍従狼〉は君には怒らないかもしれないけど」

 そう答えたジョイドは心成しか、呆然としてさえいるようだった。トシュの(ひが)目であったかもしれないが。

「いって!」

 ぐいと傷を拭われてトシュは悲鳴を上げた。

「何怒ってんだよ?」

「必要な治療をしてるだけだよ」

「本当に『だけ』なときは『だけ』とは言わねえんだよ」

 決めつけて、天井を仰ぐ。〈武神〉の印への驚きが醒めたのか、それともセディカの目がなくなったからなのか、まさか怒り直されるとは思わなかった。

 宝刀と小刀と、朱塗りの棒とバンダナを回収して〈錦鶏集う国〉へと戻り、国王に首尾を報告した後で、二人は王宮の一室を借りていた。王宮には医官も詰めていたが、妖力と妖術による傷だからとジョイドが断った。別に嘘や方便でもない。小刀を調べたところでは、血がなかなか止まらなかったのも疲労が一気に襲ってきたのも、小刀に仕込んであった呪術のせいだったらしい。物理的に血を流しても、呪術ではなるほど、出ていくまい。

 呪術を打ち消すために聖水で洗った後、惜しみなくふんだんに塗りつけられた薬も、よく効く代わりに極力沁みるものを敢えて選択された気がする。医官に出してもらった清潔な布と、新しく描いた呪符とで傷を縛り直したときも、ありったけの力で締めつけられたから、これは相当怒っている――人前で隠していた分だけ利子がついていそうだ。

 宝刀や朱塗りの棒やバンダナを回収して〈錦鶏集う国〉へと戻り、国王に首尾を報告した後で、二人は王宮の一室を借りていた。王宮には医官も詰めていたが、負傷は妖力と妖術によるものだからとジョイドが断った。別に嘘や方便でもない。疲労が一気に襲ってきたのも、傷に紛れて食らった呪術のせいだったらしい。

 呪術を打ち消すために傷を聖水で洗った後、惜しみなくふんだんに塗りつけられた薬も、よく効く代わりに極力沁みるものを敢えて選択された気がする。医官に出してもらった清潔な布と、新しく描いた呪符とで縛り直したときも、ありったけの力で締めつけられたから、これは相当怒っている――人前で隠していた分だけ利子がついていそうだ。

 すっかり手当てが終わってしまえば、だが、呪符の中に描き込んであるのだろう痛み止めの効果で、痛みはほとんど残らない。怪我をしている自覚を保てる程度の違和感があるだけだ。さっきの今でお役御免ではセディカにすまないと思ったのか、セディカのベールは続投していた。まあ、一番外側なら衛生的にも問題あるまい。

 ……次は説教の本番だろうか。

「どうせ俺が間に合ううちに駆けつけるだろうとでも思ってたの?」

「いや……」

 相棒を当てにしていたから手を抜いたというわけではないが、単にまだいいかと放っておいた、と白状してもそれはそれで怒られそうだ。トシュとしては目を泳がせて黙るしかない。自分の非を認めたくないのではないけれど、そこまで執念深く怒りを表明しなくともよかろうに。

 ……と、思ったのだが。

「見捨てるだけでおまえを殺せるなんてぞっとしないよ」

 声を落としたその言葉で、ようやく察してトシュは真顔になった。

 ジョイドに殺意を抱かれるような付き合い方は、していないつもりだが。――トシュの父は強大な力を持つ古狼であり、トシュはその血を受け継いで地上に生まれ出た新たな狼だ。まだ百年も生きていなかろうと、人間の血が混ざっていようと。討ってしまおうと考えている者も、討とうとした者もいる。

 そして、一方。

 偉大な鷹を父に持つジョイドは、天の血を引いている。

 ジョイドの身内。ジョイドの伝手(つて)セディカには知られるわけにいかないから、そういうときにいつも使う建前でぼかした。真実を言えば――要するに、神、だ。ジョイドが繋がりを持っているのは。

 それだから、死者を蘇らせる仙薬などというものをよこされてもおかしくないし、指示のまま使うことに(ちゅう)(ちょ)がないのである。マオのためには与えてくれなかったのに、と恨み言を直接吐けないのも道理だ。天神を相手に。

 今のところ、天が――天の神々の総意が、トシュ゠ギジュを討伐すべしと決定した様子はないが。そうと決めたとしても、派手なことはいらないのである。トシュの方で危機に陥ったときに、一言、ジョイドに命じればよい。助けるな、と。

 そのとき、ジョイドは逆らえないだろう。

 それを友達甲斐がないと嘆くほど、ジョイドを思いやれないトシュではないが。

「……口が軽いぜ。俺にバレたらどうすんだ」

 トシュは(ささや)いた。

 天からも一目置かれる偉大な鳥獣を父に持ち、修行の果てに不老不死を得た獣との混血を母に持ち、人里に生まれて人里で育った、年齢までも近い二人が。同じ師匠の元で出会ったのは、ひょっとしたら巡り合わせなどではなく――。

「バレて困ることなんか何もないよ」

 ジョイドは言った。

「ただ――絶対に駆けつけられるとは限らないんだからね、ってだけ」

「悪かったよ。大口叩いといて」

 心配するなと、マオを持ち出して勇気づけたことを思うと、そこも罰が悪い。いや、マオを持ち出したのはジョイドの方だったが。

 手が伸びてきたから何かと思えば、ベールでできた腕の包帯に、注意深く当てられた。じっと注いだまなざしは、呪術の残()を、もしくは残滓がないことを、読み取れるものだろうか。鷹ならぬトシュにそこまではわからない。

「他でもないおまえが〈武神〉に頼ったぐらいだから、ちゃんと自分の身を優先したんだなってことはわかるけど」

「言うな」

 ぎん、と睨めば、相棒は楽しそうに笑った。不安がるのはここまでにした、ということのようだった。

 感謝の宴を開かせてほしいと言う国王に、ジョイドはセディカの顔色を見て、あまり派手にならないようにと要望した。結局、宴は盛大なものというより、高貴な人々と親しく同じテーブルを囲めるもの、となった。国王と王妃と太子――言わば私人としての国王一家と。

 とはいっても、女官が給仕についてはいて、トシュは少々ほっとした。山の中は仕方ないとしても、人間社会に出てきたというのに、セディカの周りにあまりにも女っ気がないことが引っかかっていたので。

 普段は後宮にいて人前に出ないという王妃も、三人の前に出ることは特に厭わず、国王と共に繰り返し礼を述べた。美女ではなかった。だから獅子は老いたと(おとし)めて遠ざけたのだなと、納得が行った程度には。侮辱的な仕打ちと、それを夫の顔と声でぶつけられたことと引き換えに、夫に成り済ました他人と、知らずに不貞を働くことは避けられたわけではある。

 化粧は濃かったが、濃すぎて下品にならない絶妙な線を心得ているようだった。そのために、近くで見ればその下にうっすら、もっと濃ければ隠れきったかもしれない火傷が見て取れた。王妃のために後宮を建てた、と史書にあったことを思い出す。王妃を外に出さない後宮制度を〈錦鶏〉国王が採用したのは、なるほど、この火傷のためか。

「王妃様にあげるんだと思われてそうだなあ」

「うん?」

「ご老公のところでこれも貰ってきたのよ。女の子の肌に傷痕が残っちゃってるから消してあげたいって言って」

 蘇生の仙薬を授けた神を、この流れで名で呼ぶわけにもいかないからそんな風に言う。ジョイドの手の中に収まっているのは、塗り薬の容器であるらしかった。

「随分あっさりくれたなと思ったんだけどさ」

「あっちが勘違いしたんならあっちのせいだろ、っつうかあの爺さんならそんぐらい見通せて然るべきだろうよ。二人分には足りねえのか?」

「これだけだもの」

 親指と人さし指でつまんでみせる。なるほど、()いた後の栗ぐらいしかない。

「だったら、俺がもう一人分貰ってくるわ」

 ご老公と呼ばれた神とは、トシュも面識はあるのだ。ジョイドと同じ師匠に学び、その前には祖父に仕込まれた、仙術の雲は天まで届く。

「……おまえ怖いもんなしだね」

 無心のためだけに押しかけるなんて、と呆れる相棒に、祖父(じい)さん譲りだと口の端を上げる。山神や土地神を使役した祖父は、天神に対しても遠慮がない。

「セダと王妃殿下のためなんだから、感心してくれたっていいぐらいだろうよ」

 他でもない自分の言うことを聞いて、これは利他的な要求であると認めざるをえないときの天神の顔を見るのが、狼の青年は好きなのだ。歪んでいるとは思っている。利他的な行為というものが実在することを否定したがる向きは、それが目的なら結局は利己的な行為であるのだと主張するのだろうけれども。

 三人は五日ほど〈錦鶏〉に滞在し、獅子が再び現れないことと、死んで生き返った国王の心身に異変が起こらないことを確かめた。王宮に泊まるのでは息が詰まるから町に宿を借りたけれども、国王に毎日呼び出されたから、トシュとジョイドは毎日通勤でもするように王宮へ赴いた。妖怪(ない)()方士として、偽国王が何か悪い影響を残していないか、見ておきたいところだったからちょうどよくはあった。結果的には、庭園の井戸と芭蕉と少し増えた牡丹の他には、偽国王が手を加えた形跡は見受けられなかったが。その間セディカがどうしていたかは知らないが、西国の町を見物したり、買い物をしたりでもしていたのだろう。

 一方で、褒美は何でも、幾らでもと言う国王に乗っかって、着替えに保存食に医療道具といった旅支度を、セディカの分も含めて整えた。もしもセディカが親戚に突き放されたらこの国に住まわせてやってくれ、と頼めればきれいに収まったと言えただろうが、〈誓約〉のことがある以上、セディカに〈連なる五つの山〉の近くにいられてはトシュの気が休まらない。一度外に出たからといって、それで効果がなくなるのかどうかは定かではないからだ。元々そう思っていたから、セディカを巫女らしく仕立ててみたり奇妙な小人になってみせたりしたのである。これから住み着く予定のある地で、方便とはいえそんな嘘を()くものではない。

 三人を除いて唯一、小人の正体を知っている太子は、小人のことを話題にして何度かトシュをからかおうとしたが、トシュがけろりとしている横でセディカの方が耐えがたい顔をするからだろう、そのうちにやめた。両親の感謝感激ぶりに比べれば冷めていただろうけれども、それは国王夫妻の方が大仰なのである。セディカを見()めるようなことは別になかった。

「セディ、王様が今日も夕飯一緒に食べたいって」

「『夕飯一緒に食べたい』って」

「余興に破魔三味でも()くか?」

「やめてよ」

 セディカは苦笑した。

「人にやらせるより、自分の演武を見せてあげたら」

「俺はいいが。国王陛下と王妃殿下と王太子殿下に手拍子をさせんのか?」

 本人たちよりも、横で見ている給仕の女官たちに屈辱を感じさせそうな気がする。傷も毒も呪術も後を引いていないことを確認したいのが本音なら、今ここで舞ってみせてもよいが。

 明日には()つ予定であった。やり残していることはあるかと問われて少女は(かぶり)を振る。

「何て言って献上しようかな」

 例の薬を掌に載せてジョイドが呟いた。隠そうとして隠しきれていないあなたの火傷のことですが、とも本人の前では言いにくい。

「帰りに王を捕まえて渡すか」

「なあに?」

「ここでは説明しにくいから、明日ね。王様たちにあんまり質問されたくないから今日まで引っ張ったぐらいだもの」

 その夜のうちに、トシュは〈連なる五つの山〉にも顔を出した。熊と野牛はいたが、虎はまだ松との詩会を続けているらしい。万一この山を越えなければならなくなった場合、詩に造詣の深い人物であれば山の支配者に気に入られるかもしれない、しかし木々の精たちには気に入られすぎるかもしれないと、宴のついでに喋った意味はありそうだ。

 どうなったと熊の方からは訊かれなかったけれど、真の国王が生き返ったこと、偽の国王であった獅子を追い払ったことは掻い摘んで話した。自分たちの出立については、竹を始めとする木の妖怪たちが万一訪ねてきても、くれぐれも明日の夜まで、即ち自分たちが確実に〈錦鶏〉を離れた後まで、伝えないでほしいと頼んでおく。挨拶になど来られては(たま)らない。

「随分人間に入れ上げるんだな」

「人里育ちなんだよ」

 未だに呑み込めないらしい野牛には苦笑した。どうもこれは理解されそうにない。

 最後の最後になって、国王からマントが贈られた。輝かしい紅の、包みを開くだけで光がこぼれるような、燃える炎のようなそれは、国王も王妃も炎にはトラウマがあるわけではないのかと心配になるほど――炎のよう、だった。それとも、だから惜しみなく下賜できるのだろうか。五日で作れるとも思えないから、宝物庫にでも眠っていたのかもしれないし、季節にもあまり合っていないが、手元にある最高級品を選んだらこれになったのかもしれない。男女を問わず、背丈を問わず、使えるように工夫したらしいデザインだったけれども、本当に身にまとえる機会があるかどうかは疑問である。

「万に一つあの獅子が戻ってくるようなことがあったら、俺らが落とし前をつけに来るように、〈慈愛天女〉か〈冥府の女王〉に祈ってくださいや。気を()かせて知らせてくれるでしょう」

 こちらからはそれを最後の助言に、一行は〈錦鶏集う国〉を後にした。

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