「そう来たか」

 もう一人のセディカの向こうにトシュが降り立った。セディカの背後でも着地の足音がして、びくりと見返ればこちらはジョイドである。ジョイドはセディカを見、もう一人を見、トシュを見て――首を振った。

 見分けがつかないのか、と絶望に駆られた刹那、トシュがパチンと指を鳴らす。途端に服がぱっと元に戻って、セディカは自分を見下ろした。

 そうか、と遅れて理解する。セディカの服を巫女服に変えていた術を解いたのだ。それで元に戻るのは、つまり、本物だからである。

 安堵の笑みがこぼれる前に、だが、トシュでもジョイドでもない誰かが走ってくるのを聞きつけた。はっとした。トシュとジョイドの他にも、役人たちが、就中(なかんずく)武官たちが、この場にいることを忘れていた。

「偽物、覚悟!」

 衣冠でそれとわかる将軍が、宝刀を高く振りかざした――セディカ目がけて。

 キン! と刃が鳴ったと同時、ジャラ! と金輪が音を立てた。ジョイドが杖で受け止めたのだ。

「逆です! あいつの術が届く方が本物だ!」

 その間にトシュは偽のセディカに打ってかかろうとしたようだったが、そちらをかばおうと動いた武官もいたらしく、どけと怒鳴る声がする。見返る余裕はない。とにかく将軍から離れようと飛び下がったとき、霧が再び爆発するように広がった。

 ジョイドの背中を見失うまいとしたセディカを、誰かがぐいと引き寄せるや、突き飛ばすというよりもほとんど投げ出すようにした。今度は、セディカは倒れ込んだ。

 立ち上がったときには、方向が、つまりどこに誰がいるのかが、わからなくなっていてぞっとする。トシュとジョイドを呼ぼうとして、だが、やめた。妖怪に名前を聞かれてはまずいのだったろうか、と気がついたのだ。

 先ほどと同様、長くは経たずに霧が晴れた。そこでセディカは、ジョイドの後ろの地面に転がっている偽物を認めた。

「ジョ、――後ろ! 偽物が……!」

 それは自分が本物であるという主張でもあったし、ジョイドが後ろから襲われるのではないかという恐怖でもあった。

「違うわ! わたしは偽物じゃない!」

 さっと向き直るジョイドに、偽のセディカが慌てて身を起こしながら訴える。巫女服はセディカと同じ服に変わっていた。(せっ)(かく)区別をつけられたところだったのに!

「本物なのよ! 信じて……!」

「どっちも捕まえろ!」

 鋭い叫びを認識したのとどちらが早かったか、両膝ががつんと敷き石を打った。右腕を背中へねじり上げられ、左肩をつかまれている自分を、一呼吸置いて見出した。

 左腕は一応自由だったが、セディカは呆然とした。霧の中で飛びついてきたのも突き飛ばしてきたのも、偽国王即ち敵であったはずだ。敵ならおかしいことはない。だが、今、右の手首を痛いほどきつく捕まえているのは、トシュの手で――。

「本物ならおわかりですね? 食前の祈りを唱えてください、お母様に教わった方を!」

 顔を上げた。ジョイドは自分が押さえつけているもう一人のセディカから目を離していなかったが、よく通る声を張り上げたのは、こちらにも聞かせるためであるはずだ。

 唾を呑んで、セディカは口を開く。背後のトシュに聞こえるよう、声を励まして唱え始めた――食前の祈りと聞いて、普通は思い浮かぶはずのない、〈慈愛天女〉の守護呪を。

 手首を捕まえていた力が緩んだ。

「五秒、我慢しろ」

 次の瞬間、セディカは地面に叩き伏せられた――と、周りには見えただろう。実際、セディカは地面に伏していた。が、衝撃は全く感じられなかったし、ぶつけた痛みも押さえつけられた痛みもない。ただ、突然水の中にでも落とされたかのように、空気でない何かに包まれたかのように、息ができなくなった。その何かがクッションになったから、衝撃から守られたかのようでもあった。

 予言通りの五秒か、一秒長くか短くかが、過ぎて。

「これを持っとけ」

 ふっと楽になったと同時、手元に下りてきた何かを、何とわからぬまま握り締める。どこかで慌ただしい、揉み合いか何かの気配がした。

 トシュが消えた。

 手をついて起き上がったセディカは、偽のセディカが将軍の宝刀を引っ()()って飛び去るのと、トシュがその後を追って矢のように飛んでいくのとを辛うじて(とら)えた。先ほどと違って、飛んでいけたらしい。

 そして――それきり、見えなくなった。見えない、だけではない。武器の音も、声も、微かにすら、聞こえてこない。

 ……つまり。この場で〈神前送り〉に処すことはできなかったものの、王宮から追い出すことはできたのだ。こうなればトシュは町の外、国の外へ出るまで追い立てていって、周りを巻き込まない場所で改めて〈神前送り〉を試みるのだろう。この場は――もう、大丈夫だ。

 ほうと息を吐き出した、一秒後には心臓が止まりそうになった。ジョイドが腹部を押さえ込むようにして(うずくま)っているのである。

「ジョイド!」

 悲鳴に近い声を上げて駆け寄れば、周りにいた武官たちは道を開けた。ジョイドの目の前に、セディカは(ひざまず)く。

「ジョイド」

「……いったあ」

 こぼれた一言は、想像したほど苦しそうではなかった。

「だ、大丈夫、なの」

 頭を上げてこくこくと頷いたのは、喋るのは辛いということだろうけれども、後を引くものではないということでもあった。殴られたか何かであって、斬られたり刺されたりしたわけではないのだろう。セディカはへたり込んだ。驚かせて!

「どういうことだ」

 見れば、太子が下りてきていた。

「聞いていた話では……父上は」

 セディカは急いで座り直し、揃えた手を地面につく。ジョイドに答えさせようというのは酷だと思ったので。

「殿下。――天の恵みです。陛下の御体が朽ちぬように守り、御霊と御命を呼び戻すことを、天がお許しくださったのです。あの方は確かに、殿下の真のお父上でございます」

 昨日は死んだと聞かされて、今日は生き返ったと聞かされるとは、太子にしてみれば振り回されているようなものだろうけれど。

「陛下に、改めて宣告をと」

 ジョイドが(ささや)き、セディカは取り次ぐように、太子に向けてそれを繰り返した。太子は再び階段を上がり、国王にその通り伝えたのだろう、国王は頷いて巻き物を広げた。

「〈慈愛神〉の加護の下、〈錦鶏集う国〉国王が命ずる」

 朗々と読み上げたのは、あの方士を〈錦鶏集う国〉から追放し、立ち入りを禁じる勅令であった。文体と形式は帝国の勅令と同じようでもあるが、細部が違っている気もしたから、勅令に(なぞら)えた呪文ということなのかもしれない。

 ジョイドはしばし、耳を澄ますように目を閉じてから、立ち上がった。つられるように自分も立ちながら、なるほど血の痕も見当たらないし、服が破れているでもないとセディカは見て取った。

「偽物は国の外へ去りました。ですが、事が済むまでそのままお待ちください。もしもあの方士が今の術を破り、再び立ち入るようであればわたしが迎え撃ちます。そのときは、どうかお嬢様を」

 階段の下から直接奏上した声も、もう苦しげでも辛そうでもない。

 だから、後は――気に懸けるべきは、トシュだけだ。

 ぎゅんと速度を上げて追い抜き、振り向きざま棒を左右に伸ばして、勢いよく風車のように回転させる。(さえぎ)られた偽のセディカは、流石(さすが)に慌てて急停止した。

「逃げんなよ。話がある」

 ぴたりと棒を止め、構え直したトシュを、セディカの顔と声と、セディカらしくない表情と口調が睨みつけて(ののし)った。

「横から首を突っ込みやがって。俺がここの玉座をいただいたからといって、貴様に何の関係がある」

「関係ないで逃げるにはおいたが過ぎるぜ」

 逆鱗とジョイドに評された、大嫌いな逃げ口上に、トシュも苛立ちを抑えずに返す。

「獅子ともあろうもんが、か弱い人間を陥れて恥ずかしくないのか?」

 獅子。霊獣。虎をも(しの)ぐ四つ足の獣。

 偽のセディカは目を円くした後、どこか含みのある笑いを浮かべた。

「俺を獅子と知っていたか」

「知られたくなきゃ、牡丹に近づかなけりゃよかったのさ」

 熊から聞いたとはおくびにも出さず、簡単な推理だとばかりに(うそぶ)く。獅子は牡丹の下で眠るのだ。獅子の肉を食らう虫が獅子の身中に生じるから、牡丹の朝露で駆除するのである。人間の体になっているなら、虫が湧くことも肉を食われることも本当はなかったかもしれないけれど、わかっていてもなるべく牡丹に触れていたい、という心理も不自然なものではあるまい。

 少女の姿はたちまちに、夏の木々のように青々とした毛並みの、堂々たる獅子の姿へと変わった。

「わかっていながらいい度胸よ」

 吐くが早いか、身を躍らせて襲いかかる。〈神前送り〉の呪符を叩きつけてしまうか、動きを封じる別の呪符を使うかとも考えたものの、結局飛び退()くだけにして、トシュは代わりにバンダナを(むし)るように外して投げつけた。バンダナがほどけて広がり、ばさりと獅子の目を覆った隙に、一応距離を取っておく。

 ほどけて広がったのは術によるものだが、バンダナそのものは何でもない、単純な目隠しだ。仮にも〈慈愛天女〉の加護を期待しているからには、話し合う機会も与えずにいきなり強硬手段に出るわけにもいかないのである。その手段の実態が「神に全てを(ゆだ)ねる」という謙虚なものであっても。

「俺は〈慈愛天女〉の薫陶を受けた身なんでね。井戸に三年漬け込まれた王を憐れんでるだけさ。漬け込んだおまえが王の太刀打ちできない相手だってんなら、なおさら引くわけにゃいかねえんだわ」

「俺は〈慈愛天女〉の薫陶を受けた身なんでね、王を憐れんでるだけさ。王の(かたき)のおまえが王の太刀打ちできない相手だってんなら、なおさら引くわけにゃいかねえんだわ」

「軟弱なやつを(あが)めている」

 頭を振ってバンダナを払い、獅子はせせら笑った。挑発だろうが、別に腹は立たない。(むし)ろ、その通りだなと苦々しく思う。そうでなければ、今は絶好のチャンスだったのに。

「だからおまえは命拾いしてんだぜ、人殺しの乗っ取り野郎よ。おまえが金輪際、あの王とあの国とあの王の周りに寄りつかないと自分で誓うなら、俺は手を引いてやる」

「聞かんと言ったら?」

「力尽くで引き()がす」

「ほざけ」

 二度目の突進をいなして振り返った先には、方士の格好をした人間の姿がある。これが即ち、この獅子が人間になるときの、誰を真似たわけでもない本来の姿なのだろう。人さし指を立てた右手を顔の前に構えていたから、おっと危ない、とこちらも呪文を一つ唱えた。普通の人間が見ていても何かが起こったようには思えなかっただろうが、仙術や法術に通じている者、もしくは妖怪が見ていれば、何かしらの術がトシュに降りかかり、(はじ)かれて霧散したことを認識したはずだ。

「乳臭い小僧が。獅子たるこの俺を見(くび)ったこと、後悔させてやるわ」

「何でえ、それが理由かね」

 その正体は獅子であると知りながら、恐れ入らなかったことが気に食わないのか。これは自分が焚きつけたことになるのだろうかと思いながら、トシュは棒の先でぴしりと獅子を指した。

「そんなら受けてやる。俺とおまえのサシの勝負だ。俺は誰の手も借りない、おまえも誰の手も借りちゃならない。今の今から勝負が着くまで、誰一人として巻き込むな」

 町からはもう遠く離れたし、獅子が再び逃げ込もうとしても、ジョイドの手配と寺院の祈願によって阻まれるだろう。この上〈誓約〉で縛るまでもないかもしれないが。

 忌々しく思い浮かべたのは、意気(よう)(よう)と追ってきた竹である。一度は引いていったものの、もしも何かを思いついてまた馳せ参じてきたら、邪魔だ。助太刀のつもりの余計な関与を防ぐためにも、〈誓約〉の強制を利用するのは悪くない。

 それに。

 これまで細々と、調査や下準備にばかり気を配ってきたので。

 そろそろ気兼ねなく一暴れしたいという本音も、実のところ、ある。

 確かに、強い。

 ガキン、と受け止めた宝刀は刃(こぼ)れすらしなかった。のみならず、刀を振り下ろした勢いで自然に起こりうる風を(はる)かに超えた衝撃波が発生して、トシュの方で防いでいなければその肌を切り裂いたところだった。霊獣であることが必ずしも戦闘能力に結びつくわけでもないだろうが、武器を強化するという発想があれば当然それだけ強力になるし、どれほど、どのように強化できるかによっても危険度は上がりうる。

 これなら弱い者いじめとも大人げないとも言われるまい。こちらは正真正銘、見た目通りの若造である。何百年、何千年生きているとも知れぬ青獅子に、手加減をしなかったとて非難される(いわ)れはない。

 ぺろりと舌()めずりをする前に、しかしもう一つ思いついてしまって、仕方なくトシュはそれを口に出した。

「そうそう、一個忘れてたわ。(しん)(しゃく)してほしい事情があるなら、今、言いな。あの王を三年間水漬けにしておきたい理由があったのか?」

 あれは復讐だったのだ、と言われれば話は変わってくる。これは〈慈愛天女〉に対する遠慮というより、トシュの個人的な温情だ。もしもジョイドが井戸に落とされて生死の境を彷徨(さまよ)うようなことがあれば、トシュはその犯人を東の大海の、人間には発見されてすらいない海溝の底に沈めるだろうから。

「そうそう、一個忘れてたわ。(しん)(しゃく)してほしい事情があるなら、今、言いな。あの王を三年間、王座から追放しておきたい理由があったのか?」

 あれは復讐だったのだ、と言われれば話は変わってくる。これは〈慈愛天女〉に対する遠慮というより、トシュの個人的な温情だ。もしもジョイドが生死の境を彷徨(さまよ)うような目に遭わされたなら、トシュはその犯人を決して許さないだろうから。

 (もっと)も、獅子がその言葉にはっとする様子はなかった。復讐を志すような後味の悪い過去が存在しないなら、それは結構なことではある。

「随分と余裕だが、仲間を看取ってやらんでいいのか? 今なら息があるかもしれんぞ」

 この(あお)りはそれこそジョイドのことだろう。単なるはったりか、本人は致命傷を与えたつもりでいるのか。血のにおいはしなかったし、そもそもジョイドが構わずに行けと合図をしたのであったから、トシュは焦らなかった。

 そう易々と殴り倒せる相手でもないらしい、と隙を狙って呪符を放つ。呪符は厚さと硬さのある板のように、そして細い矢のように飛んで獅子の頭を目指したが、獅子の頭が消え失せたために、何もない空間を通過した。否、獅子がセディカに成り変わったので、頭の位置が瞬時に下がったのだ。

「やめて……!」

 セディカの声で叫ぶ獅子の脳天に、トシュは迷いなく棒を打ち下ろした。獅子は雲を消して地面に飛び下り、容赦ない一撃は空振りに終わる。

「酷えやつだな!」

 本気で慌てたらしく(わめ)いた獅子は、今度はジョイドの姿になっていた。〈誓約〉が効いているなら本物のセディカもジョイドも巻き込めないのだから、騙される理由はなくなっているのだが。

 ――行けるか、と詠唱を始める。目的は獅子を打ち倒すことではなくて、〈神前送り〉で〈侍従狼〉と〈天帝〉の前に突き出すことなのだ。打ち倒しておけば呪符も貼りやすいだろうし、呪文もゆっくり唱えていられるだろうということであって、向こうがぴんぴんしているうちに呪文を唱えてしまっても一向に差し支えない。

 唱えることは差し支えないが、〈神前送り〉の呪文は面倒なことに、送りつける対象を目視したまま唱え切る必要があった。神に対する責任と礼儀の問題であるらしい。そこへ来て、印であれば〈天帝〉を意味する一つだけで済むところを、「いと高き処におわし万物を()べる全知全能の〈天帝〉」と長々しく言わなくてはいけないような作法がある。印と違って言葉であればなまじ細やかな表現ができるから、印と同じ単純な表現で済ませるのは手抜きと見()されるのだとか。馬鹿馬鹿しいと無視すれば術は成功しない。腹立たしいが、決まり通りに唱えるだけだ。

 が、半分も終わらないうちに、ぐいと雲ごと下に引っ張られた。(しゃく)な、というような気分になったのは、獅子自身が王宮から逃げ出そうとしたのを一度引きずり下ろした、あれをやり返されたかのようだったためだ。このまま詠唱を続けたとして、地上に到達するまでに終えられないかもしれないリスク、他でもない〈神前送り〉の呪文を中途で切ってしまうかもしれないリスクと、詠唱の(かたわ)ら印を結んで別の術で対抗したとして、うっかり呪文を誤るかもしれないリスク、あるいは獅子から目を離してしまうかもしれないリスクを考慮した結果、トシュはぎゅっと鼻に(しわ)を寄せながら呪文を打ち切った。打ち切るときは打ち切るときで、「ということを申し上げる心積もりでおりますので、その際はどうぞよろしくお聞き届けください」というような断りをつけておかないと、〈神前送り〉の場合は後が危ない。その神の怒りを買う可能性があるので。

 そのまま地面に叩きつけられようとしたのは、セディカを地面に叩きつけたときと同じ術で防いだ。同時に光を爆発させたのは、獅子の起こした霧をヒントにしたのである。光の中から躍り出たとき、トシュは狼の本性を露にしていた。白銀の毛並みが輝かしい、父の子であると証す姿。

 獅子が驚いた顔をするのにトシュはいささか気をよくしたが、押さえつけようと飛びかかったのは受け流された。そちらも本来の姿になった獅子としばらくやり合い、上手くいかないなと人間に戻る。狼の姿でいたのでは、呪符が使えない――人間の姿になっていた妖怪が獣の姿に戻るとき、身につけていた服や武器は消えるのが普通だ。失われるわけではなく、人間になればまた現れるから、獣になって敵を組み敷いてから人間になって呪符を貼る、という作戦は成り立つのだけれど、まず組み敷けなければ始まらない。

 二人、それとも二頭は、手を変え品を変え、姿を変えながら渡り合った。青獅子は国王の姿にもなったし、将軍の姿にもなった。果てはトシュにまで化けてみせたけれども、向こうが偽物に決まっているのだから一番騙されようがない。双方の攻撃はそれぞれ何度か命中したものの、どちらも無策にその攻撃を受け入れたわけではないから、結果としては打ち消されて裂傷にも打撲にもならなかった。獅子がセディカに化けて呪符を(かわ)したのに(なら)って、トシュも小人になって獅子の突進を躱したときには、小さくなった自分を向こうが見失っているうちにと急いで詠唱に取りかかったが、獅子が霧を起こして身を隠したのでまた中断する破目になった。

 さらにもう一度、合計で三度、呪文での〈神前送り〉を試みて、三度目も果たせなかったことは少々まずいと思った。送るものがありますと伝えかけて途中でやめる、ということを三度繰り返したわけで、〈侍従狼〉の覚えがそろそろ恐ろしくなってくる。後で怒られないだろうか。

「そんなにあの王に惚れ込んだか。それとも恩を売るつもりか?」

 がなる獅子も余裕をなくしているらしかった。であれば、自分が酷く劣っているわけでもないはずだ。

 髪を一つかみまとめて引き抜く、一本一本が(つぶて)に変わって雨を(あられ)と降り注いだ。大きく跳ねて逃げた獅子の着地を狙った呪符は、すんでのところで身をよじったその毛皮を(かす)めるに留まる。これでも駄目かと憎らしく思いつつ、表向きは不敵に、トシュは笑った。

「責任っつう概念を知ってるもんでな」

 全く、全く以て、面倒な話だが。

 口を出して、手を出して、引っ()き回しておいて。思ったほど簡単ではなかったり、単純ではなかったり、長引きそうだったり、飽きたりしたからといって。いつまでも自分に依存するなだの、自立しろだのと聞こえのよいことを言って、〈錦鶏〉側のせいにして。獅子に喧嘩を売るだけ売って逆恨みを煽っておきながら、後は〈錦鶏〉の問題だ、と知らん顔を決め込むようでは。

 間接的な加害者になる。

 木々の(うたげ)から引き離したセディカを、引き離したその場に置いて去ったとしたら、自分は助けてやったのだと嘯こうとも、面倒を見てやる義理はないと癇癪(かんしゃく)を起こそうとも、セディカを殺したのはトシュであっただろうように。

「未来永劫あの国を護衛してやるつもりはねえんでな! てめえを潰しとくしかねえだろうが!」

 頭の上へ振りかざした手にカッと光を宿らせて気を引いた隙に、礫に変えた髪を礫のまま呼び戻す。背後から襲われる格好になった獅子が、回避も防御も完全には追いつかずによろめいたから、今だ、とまた呪符をほとんど撃ち込むようにした。相手が体勢を立て直す前に届きそうだったそれらは、しかしその直前に燃やされて落ちた。

 トシュは舌打ちをした。今の呪符は動きを止めるものであって〈神前送り〉の呪符ではないが、〈神前送り〉用ではない呪符はこれが最後だ。〈神前送り〉の呪符も何枚か残っているものの、これで相手の癖はつかんだ、次は外さない、といった手応えが全くない。反対に、呪符を使うということを知られてやりづらくなっている節がある。

 手の内を(さら)しすぎたか。というより、晒したのに仕留められなかったことが問題か。霊獣というものを甘く見ていたかもしれないし、〈誓約〉を成立させるために予想外の力を消費しているのかもしれない。単に自分を過信していたのかもしれない。

 反省は後だ。

 隠し玉を使ってしまったのは、だが、獅子も同じだったらしい。知られたからにはもうよいと自棄(やけ)を起こしたかのように、身構えるや炎を吹きつけてきた。ひゅんと空に飛び上がったトシュは龍かよと毒づいた。勿論(もちろん)、獅子が霧を使おうが炎を使おうが、何もいけないことはない。こちらが事前に予想できないだけである。

 獅子が空へと追ってきて二度目の炎を吐く。一度目よりも弱いのは、消耗するものなのか、単に不得意なのか、いずれにせよこちらには朗報だ。空で吐かれる分にはよいが、地上で吐かれて辺り一帯を焼け野原にされても困るなと、トシュは半ば無意識に足の下へ視線を投げて――一気に降下して雲から飛び下り、獅子が追ってくるのを確かめてから、片手でバシンと地面をはたいた。

 否、地面ではない、あのバンダナが落ちていたのだ。戦いながらあちらこちらと移動していたはずではあるが、元いた辺りに戻ってきたらしい。

 バンダナは(じゅう)(たん)を転がしたように広がり、トシュの前方に着地する獅子の足の下に滑り込んだ。特に目くらましもかけなかったから、獅子が気づいていなかったということもないだろうが、踏み締めようとした足はがくりと滑る。バンダナ自体に、術を乗せたので。

 すかさず棒を振り上げて、一気に伸ばしながら振り下ろす。今度こそ――。

「やつは俺の主人を水に落とした」

「やつは俺の主人を殺した」

 ばっと頭を上げて、獅子は怒鳴った。

 反射的に縮めた棒は、筆ほどの短さと細さになって手の中に収まった。虚を()かれたトシュを、獅子は憎々しげに睨んでいる。

「だから俺もやつを水に落とした。何が悪い」

「だから俺もやつを殺した。何が悪い」

「……そういうことは、先に言えと」

 言い終わらないうちに、宝刀が風を切って飛んできた。はっと棒を構えて(はじ)いた、次の瞬間。

「つっ」

 隕石のように落ちてきた小刀が、左の二の腕に深々と突き刺さった。

 言い終わらないうちに、宝刀が風を切って飛んできた。はっと棒を構えて(はじ)く。

「そういうお涙(ちょう)(だい)が好きか」

 凶悪な、だが見ようによっては心の底から愉快そうな顔をして、獅子はのそりと身を起こした。

「いい読みだ」

 凄みのある笑みを返して、トシュは小刀を引き抜いた。ぐらり、と視界が傾ぐ。毒か。

 勿論、卑怯なことでも何でもない。獅子が霧を使おうが炎を使おうが、小刀を使おうが毒を使おうが。今の今まで()()らせなかった獅子が上手かったのだ。襲撃されると事前に知っていたわけでもあるまいに、毒の刃を仕込んでおいた準備のよさも。

 ……ああ、呪符を放っておけばよかったのだ。それなら途中で止めることもできなかったのに。つい使い慣れた棒を振るってしまった、あれが分かれ道か。

 小刀にふっと息を吹きかけて、武器として使えないようにしてから投げ捨てると、爪だけを狼のそれにして傷口を切り裂く。当座、血と一緒に毒にも流れ出ていってもらうしかない。幸い、動ける。まだ。

 青年は地面を蹴って飛び出した。

 凄みのある笑みを返すと、青年は地面を蹴って飛び出した。

「じゃあ、これの意味はあったんだ」

 首飾りの玉の一つにジョイドは触れた。

「これに邪魔されたから、首や口に手が届かなかったんじゃないかな。それで諦めたんだと思う」

 獣の爪を()き出して(のど)に突きつけるようなことができなかったわけだ。なるほど人質にはしにくかっただろう。

「ジョイドはもう大丈夫なの」

「うん、平気。護符を書きまくった甲斐があった」

 護符と聞いて、セディカは反射的に手元へ視線を落とす。トシュが去り際に渡していったのは〈慈しみの君〉の護符だった。ジョイドが言うには髪の毛を変えただけのもので、力を込めて書きつけるという工程を経ていないから、護符としての効果はあまりないのだとか。純粋に目印だったということだ。

 偽国王が引き返してくる様子はなかった。ジョイドを除いて誰にも経緯を追えない一騎打ちの決着を待つ間に、セディカは本物と偽物を取り違えて斬りかかろうとした将軍に謝られ、反応に窮してジョイドに助けを求めたり、将軍を咎めないでほしいと国王に頼んだり、した。別に将軍は大袈裟な謝罪で同情を引こうとしたわけでも、当てつけにしたわけでもなかったが。

 太子の姿はなくなっていた。ジョイドが招き寄せて、国王の生還を王妃に伝えるよう耳打ちしたのだ。偽物に成り変わられていたこと、本物は殺されていたことを、王妃もなまじいに知ってしまっているわけだから。

「ちょっとショックだなあ。見分けられなかったなんて」

 目と鼻には自信があったんだけど、と鷹の息子にして犬の孫は溜め息を()いた。軽い口調ではあるが、口調が主張しているよりも、実際のショックは大きそうだ。

「思ってたより、強い?」

「トシュが勝てないほどじゃないよ」

 質問の裏を的確に読み取って励ましてから、ふと空中へ目を転じる。

「でも、切り傷ぐらいは作るかもしれないから。片づいたら、迎えには行ってやろうか」

 (はる)か彼方で血が流れたことを犬の鼻が感じ取っていたとしても、そのことは少女に伝えられなかった。それでも少女はその言いように不安を覚えて、握り締めて皺になった形だけの護符を胸に当て、トシュをお守りくださいと〈慈しみの君〉に祈りを捧げた。

 ――ちょうど、同刻。

「勝負あったな、狼の小僧」

 大地に手足を投げ出して、トシュは荒い息を吐きながら目の前を睨みつけた。こちらも肩で息をしながらにやりと笑う青獅子が、四つの脚でその手足を押さえつけていた。

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