昨日一日の記憶を消したい。

 頬が熱くなるのを我慢しながら扉を叩く。昨日の時点で既に同じような思いを味わっていた気がするが、しかし、巫女ぶった芝居をしたことにも二人の前で泣いたことにも、トシュのせいだという逃げ道があった。トシュだけの前で泣き(わめ)いたことには、逃げ道が全くない。

 出てきたトシュは寝間着のままだった。

「ちょい待て。寝てたわ」

「あ……ごめんなさい」

「いや、ちょうどいい頃合いだよ。起こしてもらってよかった」

「あ、あの」

 引っ込もうとするのを急いで引き止める。

「昨日……あの……ありがと」

 ああ、と微笑が返ってきた。

「落ち着いたか」

「うん」

 今日は大丈夫、と頷くに(とど)め、今度はトシュが引っ込むに任せた。もう少し何か言おうかとも思ったものの、自分語りになりかねない気がしたので。

 母が死んだとき、泣きじゃくる自分を抱き締めて慰めた父の、体温の(おぞ)ましさを今朝になって思い出した。昨夜のうちに思い出さなかったのは、トシュが抱き締めるどころか、頭や肩に手を置くことすらしなかったからだ。思い返せば、ジョイドの前で泣き出したときもそうだった。父とは、違う――自分に(なつ)かせる好機だとでも考えたらしい父とは。母を亡くした幼い娘を本当に思いやっていたのなら、西国人が帝国で生きていても苦労するだけだから、母は(かえ)って幸せかもしれない、とは言わない。

 父のことがあるから、真っ当ないたわりが身に()みる。痛切なありがたみを伝えようとすればするほど、だが、二人への感謝よりも父への非難が目立ってしまいそうだ。さりとて、どさくさ紛れに()で回さないでくれてありがとう、とだけ言われても意味がわからないだろう。

 やがて着替えたトシュが再び扉を開け、当然のようにセディカは中へと(いざな)われた。今日の予定を確かめ合うだけなのだけれども、どうにも「口裏を合わせている」気分になるのは、妖怪であるという正体を隠していることが意識されるのだろうか。それとも妖怪云々とは関係なく、巫女服を着たり小人になったりしては、散々周りを()()()してきているせいか。

 机の上に目が行ったのは、何だかたくさんの紙が置いてあったためだった。呪符や護符の(たぐ)いと思しきものもあれば、細い巻き物になっているものもあり、これから畳むつもりか折り目のないものもあった。

「計画変更だね。王宮には王様も一緒に乗り込んでもらうよ」

「計画通りなんじゃねえか、そこは」

 元より、国王も一緒に、という予定ではあったのだ。死者から生者に変わっただけで。

「王様から目を()らすためには、セディがこのままご主人様役で目立っててくれた方がいいけど。偽物と対決するときに、狙われるかな?」

「本物の王と俺を差し置いてか?」

「大事にしてるように見えてもまずいかなって」

「……そりゃ、人質にでもされたらやりにくいが。主人と従者でなけりゃ、何だってことにするんだよ」

 まあ血縁にも同僚にも見えないねえ、とジョイドは認めた。

「仕方ないか。危ない役を頼むような気はするけど、セディ、このままでいい? 身を守る護符は渡しておくから」

 ええ、と少し怖い気もしながら了承すれば、ジョイドは机から紙を何枚か取り上げた。これは胸の辺りに、これは腹の辺りに、これはベールの中にでも忍ばせておくこと、折ってもよいしピンで留めてもよい、などと軽い講釈が入る。

「これも貸しておこうか……これは普通の人が持ってても気休めかなあ」

 例の首飾りを外しかけて、迷う。

「これで守れるのは、これの内側だけなんだよね。首にかければ全身守られるっていうわけじゃないんだ。紐を伸ばせれば結構便利なんだけど、仙術や法術を扱えるようじゃないとそういう使い方はできないし」

「首が守られれば大分心配は減ると思うぞ」

 その後押しを受けて、結局、紐を少し伸ばしてから差し出した。これが役に立つのはつまり、首を斬られそうになったときだろうかといったことを、深く考えないようにセディカは努めた。

「ま、心配せんでも、親父と祖父(じい)さんの血は伊達じゃない。俺に任せとけ」

 トシュがいささかわざとらしく胸を叩いたのは、つまり無力な少女を元気づけようとしたのだろうけれども、

「自信たっぷりなところに水を差すのもなんだけど」

 ジョイドは少々疑わしげに首を傾げた。

「偽物が王宮の外に飛び出して、外でやり合うことになったとしてね、そこの民家を叩き潰されたくなかったら武器を捨てろって言われたらどうするの」

「……」

「黙んないでよ」

「いや、だって、わかったっつったら終わっちまうし」

 苦笑に対して渋面が返る。偶然近くにいただけの誰かを犠牲にするわけにはいかないだろうが、だからといってそうそう呑むわけにもいくまい。一度呑んでしまえば、要求がエスカレートするのも目に見えている。

勿論(もちろん)、なるべく町の外に追い出して、一度追い出したら戻ってこさせないように、っていう方向で考えてるけど。町の中でやり合うことになりそうになったら――これは一対一の戦いであって他人を交えちゃいけない、っていう〈誓約〉を立てるのがいいのかな」

「……それは、破ったら罰が下る方じゃなくて、強制的に禁止する方だよな?」

 こちらの提案の難易度はセディカにはわからないものの、提案された側が眉を(ひそ)めるのを見れば察せられた。

「そうじゃなくても、他人を〈誓約〉で縛るってのは、自分で〈誓約〉を立てるのとはレベルが段違いだろ?」

「普通はね、あんな勢い任せの言葉が〈誓約〉として成立したりしないの」

 教えるジョイドはまるで諭すかたしなめるかのようだった。

「あれで無意識に〈誓約〉を立ててしまえるんだったら、他人を巻き込んだ〈誓約〉を立てることもできると思うよ」

「……そうか」

 困ったように鈍く笑んで、トシュは了承を示した。

「後は、(せっ)(かく)王様がいるから、王様にも術を試してもらうかな。我が民に手を出してはならぬ、って言えるのは君主だけだからね」

「三年間玉座から離れてた君主な」

「そう。だから過信はしないこと」

 今度は巻き物を手に取ったところで、あ、とジョイドはセディカを見返った。

「この先はセディを付き合わせてもしょうがないな。一旦向こうの部屋に戻って、護符を仕込んでおいで」

「あ、うん」

 セディカは指示に従った。ここにいても黙って聞いていることしかできないし、粛々と言うことを聞く他に、しばらくはどうしようもあるまい。素人が自己主張するような場面ではない。

 泣いたことを引きずっているのは本人だけだなと思うと苦笑された。大一番を控えた青年たちに、そんなことに付き合っている暇はないのだ。世界はセディカを中心に回っているわけではない。

 服の中に護符をしまって戻ってくれば、机の上は粗方片づいていた。

「人前でできない話、他にある?」

「いや。……調べた限りじゃ、気にしてやらなきゃいかんような事情も出てこなかったしな。もういいだろ。俺はやれるだけのことはやった」

 神も照覧、と天井を仰ぐトシュは、急にそのときだけ投げやりになった気もしたが、いきなりそんな態度になる(いわ)れもないから気のせいかもしれない。

 それじゃ行こうか、とジョイドが言った。

「敵を(あざむ)くためです。畏れ多いことですが、陛下には従者に(ふん)していただきたい」

「構わぬ。何の問題もない」

 国王自身が二つ返事で了承したのだから、セディカが異を唱えるのもおかしいが。……自分の荷物を丸ごと国王が背負っているなど、落ち着かないにも程がある。

 国王は死に装束を脱ぎ、僧侶の普段着を借りたらしかった。井戸に三年浸かっていた衣装は、三年浸かっていた割には肉体同様さほど傷んでいなかったようだけれども、まだ着直せる状態ではないのだろう。

 国王は死に装束を脱ぎ、僧侶の普段着を借りたらしかった。三年身につけていた衣装は、三年経っている割には肉体同様さほど傷んでいなかったようだけれども、まだ着直せる状態ではないのだろう。

 本当は死んでいたあなたが、何故生きているのですか――と、生きている本人を目の前にしながら思っていられるセディカではなかった。(ずる)い、と感じるのは母が帰ってこないからであって――公平を期して死に直すべきだと、考えているわけではない。

「偽物を見抜けなんだとは、どのように(つぐな)えばよいかもわかりませぬ」

「やつは方士で、方士である前に妖怪で、妖怪である前に霊獣だ。俺らは同じ方士だからわかる部分もあったが、あんたら僧侶じゃちと難しいだろうよ」

 院主が呟いたのは国王に対してであっただろうが、横でトシュが肩を(すく)めた。大体俺らも先に答えを教わってんだしな、とも言い添える。わかっていれば見る目も変わるから、わかっていなければ見落とすことにも気づきやすいはずだ。

 ジョイドは国王にも護符を渡したり、然るべきときに国王自身に読み上げてほしいと巻き物を見せたり、院主たちにも合図があったら祈祷を行ってほしいと頼んだりした。国を守るための祈祷である。それは〈黄泉の君〉の管轄なのだろうかと思わないでもないが、配祀神の中には〈境の君〉――あの世とこの世の境であれ、国内と国外の境であれ、あらゆる境界を司る神がいたから、祈りの対象はそちらなのかもしれない。

「トシュ、小人の――小人がお嬢様を付き合わせるときの、あの衣装を覚えてる?」

「別に正確に再現しなくたっていいんだろ。失礼、お(ひい)さん」

 セディカへ向けてトシュが手をかざせば、セディカの服が昨日の巫女服に変わる。昨日「小人」が現れたときには「トシュ」はその場にいなかったわけだが、それ以前に小人と対面したり、あの衣装を見たりしたことはあるという設定らしい。どこに(ほころ)びが生じていつ嘘が暴かれるかとどきどきするから、小人の話はあまり持ち出さないでほしいのだが。

「これで準備できることは全部やったかな。では、参りましょう、お嬢様」

「……この格好は、人目を引きすぎない?」

「ご辛抱ください」

 従者役の青年はただにっこりした。

 偽国王に感づかれてはいけないから見送りは無用だと言い含めたものの、門の手前には院主を始め、全ての僧侶や下男に至るまでが勢揃いした。セディカは院主に二日間の宿泊と、母と祖母のためを含む供養の礼を述べ、たまたま目が合った下男に()(しゃく)をしてから、トシュとジョイドを従える格好で――そして今一人、〈錦鶏集う国〉の国王をも従える格好で、〈神宝多き寺〉を後にした。

 寺院から(ふもと)に向かっては、僧侶ではない普通の庶民が使うこともあるからだろう、比較的歩きやすい道が伸びていた。〈黄泉の君〉の寺院であり、恐らく裏手にでも墓地があるのだろうから、葬儀や法事や墓参りに訪れる者も多いはずだ。

「お姫さん、もっと肩を(そび)やかして歩いてくださいや。従者にびくついてちゃおかしいでしょう」

 トシュが無茶なことを言う。

「おまえは遠慮がなさすぎるのよ」

「方士が世俗の身分に囚われるのも問題なんですぜ」

「わたしは方士ではないし、錦鶏の巫女でもありません。……おまえたちとは違うの」

 最後の部分は自嘲ではなくて、妖怪でもないと言いそうになったのを言い換えたのである。妖怪が人間の身分に囚われることもないのかもしれないと気がついたものの、その通り口にするわけにもいかなかったので。

 (もっと)も、当の国王も、異国の少女の従者らしく振る舞うことを、特に厭うてもいないようだった。

「またこの足で地を踏むことが叶うとは思ってもみなかった。そなたたちは我が再生の恩人だ。まして我が仇敵の罪を暴くため、我が身を隠すためだというのに、どうして()(よう)()(さい)なことに(こだわ)ろう」

 そういう風に言われると、そういうものかとも思うが。……そんなに自分の頭が固いのだろうか。自分の反応の方が、普通であるには違いないのではないのか?

 ともあれ、四人は山道を下っていった。トシュが先払いのように前に立ち、ジョイドと国王は後ろに従う。セディカはすっかり身軽になっていたし、荷担ぎなど慣れていないだろう国王の足取りもしっかりしていた。トシュとジョイドのやり取りを聞いていた限りでは、死者を生き返らせた仙薬の余波で、しばらくは力が(みなぎ)っているものらしい。

 セディカの困惑が抜けないぐらいで、特にこれといった問題もないようだった、のだけれども。

「トシュ。山の外に出るには、もうちょっとかかると思うよ」

 不意に、謎かけのようなことをジョイドが言った。

 どういうことかと問いかけるより早く、そうだな、とトシュが足を止めた。何か記憶が刺激されるような気がして、ややあって思い至る。刺激された記憶は、大蛇が襲ってきたとき――だ。

「お嬢様、お借りします」

 ジョイドはセディカに貸した首飾りに手をかけた。

 投げ上げたように、首飾りは頭より高くまで飛び上がった。落ちてくるときには紐が長く伸びて、セディカと国王とを囲う形で着地する。

「お二人とも、その外へ出られませんように」

「ええ。――この中にいれば、安全です」

 流石(さすが)に驚いたらしい国王に、セディカは知った顔で教えた。セディカとてこの首飾りの詳細な効果は知らないが、それだけわかっていれば十分だ。

 それからトシュは三人を背にして、山を登る方向へ数歩戻った。朱塗りの棒まで握っているから、こちらの緊張も高まる。手にした棒をしかし構えていないということは、危険と決まったわけではないのかもしれないけれど――。

「おお、間に合った!」

 駆け下りてくる姿を認めて、目が点になった。四十歳ほどの、色黒の、男性――寺院に着く直前にも顔を合わせた、木の妖怪の一人だったのだ。竹、だったか。

「そこで止まれ。何の用だ」

 トシュは怒った声で命じて、大股に近づいていった。応じて立ち止まった竹は、明るい顔をしていて不快がる様子もない。

 その先の会話は聞こえなかったけれども、不穏な気配は感じられなかった。そのうち竹はがっかりしたように肩を落とし、だが気を取り直したようにガッツポーズを見せた。気が変わったらいつでも呼んでくれ、というようなことを言ったらしい。

 竹が引き返していき、その姿が見えなくなっても、少しの間、トシュは戻ってこなかった。ようやく(きびす)を返したときには、苛立ちと呆れと疲れの色を、隠しもせず顔に浮かべていた。

「何だって?」

「力になりたいとさ。どこからどんな話を聞いてきたのか知らんが」

 ジョイドの問いに、嘆息混じりに答える。熊に助言を仰いだことをセディカは聞いていなかったから、熊ぐらいしかいないのではと指摘するにも、国王の前だから伏せたのだろうと推測するにも至らなかった。

 拍子抜けでもしたかと思えばそうでもないようで、トシュの眉間には刻みつけたような縦(じわ)が寄っている。

「やる気だけで絡んでくるやつが一番面倒なんだわ。余計なことをするなとは言っといたが、本当にわかってんのかね」

「あの者は」

 問うたのは国王である。

「この山に()む木の精ですよ。人間に悪意を持ってはいないようですが、人間にとって何が害になるかを理解していない節がある」

 ジョイドの解説に、セディカは目を(しばたた)いた。言っていいんだ、と思ったので。

「〈錦鶏〉の人が〈連なる五つの山〉を越えることはありますか?」

「まず、あるまい。山へ立ち入る者はあるが、〈神宝多き寺〉が事実上の果てだ」

「それなら、心配することもないかもしれませんね。山の奥まで入っていくと、あれやその仲間に遭遇して――悪気なく、仲間に引きずり込まれる危険がありますが」

「わざわざここまで出てくることもないでしょうしな。俺らが行っちまえば」

 トシュが付け加えて肩を竦め、懐くんじゃねえよと口の中でぼやいた。それからジョイドにちらと目をやれば、ジョイドは頷いて、首飾りの外に出るよう中の二人を(うなが)した。つまり今のアイコンタクトは、竹は本当に去ったのか、他にも誰かが(ひそ)んではいないか、といったことを確認し合ったのだろう。拾い上げた首飾りが元の大きさにするすると縮まるのを、国王は興味深げに眺めている。

「地面に置いたものを身につけろというのは気が引けますが」

「理由がわかっているのに文句は言わないわ」

 受け取って、首にかけ直す。実は国王に譲るべきなのではないか、と今になって(ひらめ)いてしまったけれども、気づかなかったことにした。三人とも、咎めないだろう。

 その先は特に邪魔も入らなかった。トシュとジョイドは先ほどの竹のことを喋ったり、山奥で宴会を見かけたら恐らく木の妖怪たちだとか、その宴会に加わって飲み食いをしてはいけないとかいったことを話したり、していた。国王に聞かせるためなのだろうかとセディカは思った。セディカにも、無論トシュとジョイドにも、とうにわかっているはずのことだ。

 山道の終わり、山の出口は、両側に石の柱が立っていて、少し離れたところからでもそれとわかった。間を通り抜けてから柱を見上げれば、〈神宝多き寺〉の名前が彫りつけてある。

「山の外に出たわね」

 セディカは呟いた。これで〈誓約〉の条件から外れたわけだ、とまでは、国王の前では口にしにくい。先ほどの竹が木の妖怪であることもあっさり明かしていたのだし、こちらも実は隠し立てしなくともよいのかもしれないが。

「お姫さんに怪我がなくて何よりですよ。枯れ木どもが嫌がらせでもしてきたらどうしてやろうかと思いましたが」

 トシュはそんな言い方で、〈誓約〉の話だと通じたことを示した。枯れ木ねえ、とジョイドが説明的な相槌を打った。

 山から町まではしばらく歩いたが、草臥(くたび)れるような距離ではなかった。帝国の大都市には劣るだろうが活気のある町で、土壁の家が多いようだった。木造の家が見当たらないのは、火事を恐れているのかもしれない。

「町の様子は変わりませんか」

「……そうだな。あれが我が名の下に圧政を敷くようなことはなかった」

 後ろで(ささや)き交わすのが一度聞こえたものの、四人ともあまり喋ろうとはしなかった。

 西国なのだ、としみじみした気持ちになったことには後から気がついた。やはり帝国育ちだ、無意識に西国を「西国」と一(くく)りにしてしまう。まだ見ぬ祖父の生国は〈金烏が羽を休める国〉であって、西国全域ではない。

 トシュは何の迷いもなく先を進んでいく。王宮の庭園に入り込んで国王を連れ出してきたのだから、つまり王宮までの道はわかっているはずだ。後についていきながら、行き交う人々の視線が集まるのを感じて、セディカは足を速めたくなった。思い込みではあるまい、こんな格好で。

 あちらですね、というジョイドの声がするまで、随分なほど長くかかった気がした。目を向ければ、立派な門が聳えている。〈錦鶏集う国〉の王宮であった。帝国の外の、それも小国のものだからといって、格が低いように映ることもない。

「お嬢様。非礼が気にかかるかもしれませんが、相手は偽物であることをお忘れになりませんように」

「……ええ」

「錦鶏の巫女が世俗の王に(ひざま)く必要はない、とでも思ってくださいや」

 励ましのような注文のような囁きを最後に、私語はしばし、お預けになる。

 トシュが門番につかつかと歩み寄った。

「我々は帝国より参った者、さる方の使いとして参上した。国王陛下に書状をお渡ししたい。ついては陛下に、我々が〈連なる五つの山〉を越えてきたことをお伝えし、お目通りをお許しくださるかお尋ねいただけるか」

 門番は一度姿を消し、戻ってきて入門を許した。一行は王宮の門をくぐる。珍しい景色を眺めて楽しむ余裕は、残念ながらセディカにはなかった。

 導かれたのは殿舎の前庭であった。くすんだ白い石と明るい朱色の石を敷き詰めて、門から殿舎へまっすぐに朱色の道が伸び、その道を中心とする対称な線が左右に何本か走っている。その線に沿って、右手に文官、左手に武官が並んでいた。庭に面した幅の広い階段を上がった先に座しているのが、つまり、偽の国王だ。

 階段のすぐ下に至ると、一行は平伏した。否、平伏したのはジョイドと国王で、トシュとセディカは立ったままでいた。

 役人たちがざわつくのがわかる。後ろの国王を隠すためなのだし、前の国王は偽物なのだから、これでよいのだ、こうあるべきなのだ。昨日のように、太子を前にしていたときのように、平然とした面持ちと(たたず)まいでいようとして、内心、セディカは必死であった。

「無礼者。何故頭を下げぬ」

「それはこれをお改めくださればわかること」

 トシュが高々と立文を掲げる。それは明らかに不(そん)な、挑発的な態度であったから、偽物を偽物と知らぬ周囲がいきり立つのは当然だし、本物を装っている偽物としても憤りを示すのが妥当であったろう。

「思わせぶりなことを言いおる。が、その手には乗らぬ。そやつらを召し捕れ」

「お待ちを」

 想定していなかった声が割り込んだ。セディカはもう少しで、目だけでなく頭ごと向けてしまうところだった。偽国王の向かって右手に、太子が現れたのだ。

「そこの者たちは帝国より参ったと聞きました。また、あの娘、世俗の者であるとも思えませぬ。神に属する者を粗略に扱ったと見()され、帝国を怒らせては後が厄介。まずはあの書を改めて、言い分を確かめてからでも遅くはありますまい」

 いつの間に示し合わせたのかと反射的に思ったものの、それならそうと国王やセディカにも教えておいてくれただろうから、太子が独自に機転を利かせたのだろう。納得したのか、偽国王は手を振って命令に代え、侍従が下りてきて立文を受け取った。立文はそのまま偽国王の手に渡り、面を伏せたまま、侍従が退く。

 その瞬間、トシュは高らかに呼ばわった。

「全員よく聴け、我々は告発のために来た! そこの国王は偽物だ! その正体は三年前に消えた方士である!」

 さっと左に動くや、右腕を斜めに後ろへ差し出す。セディカもすばやく膝を折った。

「その証拠に、真の国王陛下はここにおわす!」

 そう言い放ったときには、国王もすっくと立ち上がっていた。

「弟よ」

 凛とした、力強い声が響く。

「その王冠、その玉座、国を救った功労者といえど、そなたにくれてやった覚えはない」

 ざわめきの中、偽国王はわなわなと震えた。その手が握り潰している立文は、ジョイドの監修による国王の(きゅう)弾に呼応して、何かしらの術を発動したはずだ。偽国王を拘束するとか、妖力を封じるとか、いったものを。

 太子が剣を抜き放った。偽物は一瞬受けて立とうとするかのような()()りを見せたが、思い直したか椅子から飛び出し、雲を足元に起こして飛び去ろうとした――のだろうが、庭の中頃までも行かないうちに、引き止められたように雲はがくんと下がった。

 朱塗りの棒を振り上げて、トシュがやはり雲に乗ってそこへ突進した。殴りつけようとするのを、偽物が慌てて(かわ)す。振り上げた棒の先からは同時に光が放たれて天へと走り、花火のように破裂した。寺院からも、見えただろうか。

「陛下、参ります!」

 一方のジョイドが国王を抱え、一息で階段を駆け登った。作戦は寺院を出る前に話しているし、国王の体に触れる許可も、いささか乱暴に持ち運ぶ許可も得ている。とはいえ、実際にすごい勢いで移動させられた国王はふらついたか目が(くら)んだかしたようだったが、速やかに玉座に就き、(ふところ)から巻き物を取り出した。これも無論、ジョイドが準備していたものだ。

 セディカも再び立って、トシュもジョイドも国王もいなくなったその場から、ジョイドと国王を仰ぎ見た。ここで束の間、一人で取り残されることになるのは承知していた。すぐにジョイドがセディカのことも回収しに来てくれるはずだ、国王があの巻き物を読み上げ終わったら――。

 ドン、とさほど遠くない地面に何かが着地した。振り返る間もなく、噴水のように吹き出した霧が辺りを覆う。

「逃げんな、この……!」

 上空から怒鳴り声が降ってきた直後、

「きゃ……!」

 セディカは何かに飛びつかれた。

 自分よりも高い背と自分よりも強い腕に、被さるように抱え込まれて、本能的な恐怖に錯乱しそうになる。人質、とトシュの口にした単語がよぎってそれを(あお)った。ひょっとしたら自分に矛先が向くかもしれないと、事前に予告があったとて、冷静な対処などできるわけがない。

 ――が、その何かはそれからしばし、まごついたように、もたついていた。やがて悪態を()くなりセディカを突き飛ばし、結果として少女は自由になる。

 転びそうになったのは辛うじて(こら)えた。視界を霧に閉ざされた中で真後ろに向き直ったのは、少なくともその何かはそちらにいるはずだからだ。本当に真後ろを向けたかどうかはわからない。少しでも余裕があればトシュかジョイドの名を呼んだかもしれないが、仮令(たとえ)二人に(すが)ることを思いついたとしても、(のど)がとても働かなかっただろう。

 ありがたいことに、霧は効果が切れたかのように急速に薄れ始めていた。もどかしい数秒をかけて霧が晴れると、そこには――セディカと同じ姿が、あった。

 セディカは息を呑んだが、向こうもこちらを認めるなり、(おび)えたように手で口を押さえて(あと)退(ずさ)った。あたかもセディカの方こそが偽物ででもあるかのように。

 ……巻き込まれるかもしれないと、事前に、予告はあった。

 舞台の中心に引きずり出されたことを、少女は悟った。

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