「暑い」

 セディカは呟いた。

「暑い街道より涼しい山道の方がマシかもねえ。この先にある山も、()回しないで越えようか」

 そう応じるジョイドは、しかしそれほど暑がっているようにも見えない。これも何か仙術で(しの)いでいるのだろうか。

 とはいえ、セディカも――ベールを使わなくなって、頭周りの風通しはよくなっているのだが。

 〈錦鶏集う国〉を離れた最初の晩、ジョイドに与えられた少量の塗り薬は、翌朝には少女の額から傷痕をすっかり消し去ってしまっていた。父の非道の証拠、暴力の痕跡、人非人ぶりの象徴が消滅したことに、セディカは何か言い知れない、予想外の喪失感を覚えたのだったけれども、これでもう額を隠す必要はなくなったわけである。セディカ自身が額を見るために用いた手鏡の方に仕掛けがあるのでなければ。

 思いがけないことばかりだ。幽霊となった国王の訪問を受けたことも、太子に秘密を伝えるために架空の巫女を装ったことも、方士でもある妖怪同士の戦いに巻き込まれたことも。〈錦鶏〉でのことが特別すぎたものだから、これといって騒動も起こらない今の旅路に、日常に戻ってきたかのような錯覚さえ、感じる。旅そのものが非日常であったし、行きずりの他人であり、方士であり、妖怪である青年たちに連れられていることだって、異常でさえあったはずなのだけれど。

「次の村からは〈金烏〉だよ。(こう)()〉まで最短距離で行くなら、山を一つ越えることになるね。〈連なる五つの山〉に比べれば大した山じゃないけど」

「そりゃ、〈五つの山〉に比べりゃな」

 〈金烏が羽を休める国〉の〈(こう)()(こう)()(こう)()の里〉。それが祖父の故郷であった。父に聞かされた、偽りの目的地。

 セディカが現れたとき、会ったこともない親戚は何と言うのだろう。そう考えても不安に押し潰されそうにはならないことに気がついた。拒絶された場合はトシュとジョイドに助けてもらえる気でいるのだなと、自分の内面を推し量って苦笑する。すっかり、当てにしているらしい。

「〈慈愛の寺〉」

 次の山に着き、次の寺院に着いた。セディカは門に掲げてある額を読み上げた。

「そういう名前も、つくの?」

「古い寺院だってことだね。祭神の名前をそのまま使うのは」

 この場合、〈慈しみの君〉よりも〈慈愛神〉または〈慈愛の御方〉という呼称が相応(ふさわ)しいだろう。〈慈愛神〉を(まつ)る〈慈愛の寺〉。〈慈愛神〉を主祭神とする寺院は世界中に数多くあるだろうに、そんな風に名乗ってのける寺院をセディカは見たことがなかった。

 日の暮れる頃合いであった。一夜の宿を乞えば、快く招き入れてもらえた。僧侶たちが質のよい衣服を身につけているなとは思うともなく思ったものの、院主が呼ばれてきたところで、セディカは初めて戸惑った。院主は――きらきらしていたので。

 僧衣は(きら)びやかな錦で、金を織り込み、翡翠(かわせみ)の羽根で(ふち)取りがしてあった。帽子には猫目石が飾ってあるし、靴には八宝が散りばめてあるし、杖には象眼細工が見える。

 一応、奇妙ないでたちではない。帝都にあるような大寺院であったり、皇帝の名において執り行う法要であったり、然るべき場所で見かけたのなら特に目立ちもしなかっただろう。山寺には、不似合いだが。

「帝国からおいでとか」

 愛想よくにこにことして、珍しい客人を喜んでいるようでもある。

「わけあって我々二人だけがお供しております。従者の身ですが、常にお嬢様に同席させていただきますので」

「田舎の寺です、堅苦しいことは申しませぬわい。(さっ)(そく)離れを掃除させましょう」

 田舎と謙(そん)する人間が着る服ではないのだが。

 また妖怪ではあるまいなと(とっ)()なことを考えてしまったのは、木綿の朝服を着ていた木の妖怪たちや、武官のようだが派手な服を着ていた首領を思い出したためだ。服装の違和感が妖怪に結びついてしまっている。トシュとジョイドは真っ当な旅姿でいたし、獅子は国王に成り済ましていたから真っ当な国王姿でいたのだけれども。

 振る舞われた夕食を二人が邪魔しなかったから、妖怪疑惑が濡れ衣であったことは知れた。その代わりと言おうか、食後の茶菓が出る頃には、院主の正体は判明していた。

 自慢屋、なのだ。

「これは二代目皇帝の時代の品でしてな」

 食後に出てきた茶は香り高く、その茶を(たた)えた椀は金で縁取りをした七宝で、院主が言うように二代目皇帝の時代に流行した絵柄をしていた。それを載せてきた盆に目をやれば羊脂玉のようだし、(きゅう)()は白銅らしい。

 成金趣味で趣味が悪い、わけではない。真実、上等な品々であり、組み合わせも季節感も問題はない。ただ――ひけらかす、だけだ。

 隣りのトシュが苛立ってきているのがわかる。院主は気づかないものか、(ねた)まれることこそが楽しいものか、ジョイドが上手に相槌を打っているから流されているものか。

「この程度のもの、帝国の方々は見慣れておいででしょうが」

 単に性格が悪いのだろうか。

「帝国からいらしたのであれば、見る甲斐のあるものの一つや二つお持ちでしょう。これも縁ですから拝見させていただけませんか」

「ねえ」

 セディカはトシュの耳に口を寄せた。

「あのマント、見せてあげる?」

 ジョイドではなくトシュに尋ねたところに、本音が表れていたかもしれない。トシュはにやっとした。

「心細いお立場なんでね。持ち出せたのはせいぜいマントぐらいですわ」

「ほう、マントとは」

 嘲笑に聞こえたのは思い込みではないだろう。ジョイドが咎めるように睨んでいたが、トシュは悠々とマントの包みを取り出して、開けた。

 部屋の灯りを受けてきらりと輝いたそれに、院主の顔は間違いなく強張った。トシュはセディカに立つよう(うなが)し、マントをばさりと広げてその肩にかけた。ことさら凛とした表情を保ったセディカの姿は、炎の巫女と称しても通りそうであったろう。

 思惑通りと言おうか、院主は唖然とし――驚いたことに、はらはらと涙を流した。

「年を取るとは悔しいことじゃ。(せっ)(かく)の名品、年寄りの目では、この暗さでは(かす)んでよくも見えませぬ」

 トシュが唇を(とが)らせたのは、(うらや)ましいとは言わなかったことが不満なのかもしれない。口に出しては認めなくとも、羨ましいのだろうとは、思うが。

「何かあるかと訊かれたから見せたのに、それで泣かれたんじゃどうしたらいいのかね。ああ、暗いってんなら灯りを増やしてやろうか?」

「灯りが多ければ多いで目が(くら)みますでな。いや、仰る通り、勝手でございましたわい。我が身の老いを思い知ってすっかり悲しゅうなってしまいました」

 院主は首を振った。

「のう、老人をいたわると思って、一つわがままを聞いてはくださらんか。一晩、これをお貸しいただきたい」

「うん?」

 声を立てたのはトシュだったが、セディカも目を円くした。

「じっくりと、飽きるまで眺めてみたいのですじゃ。勿論(もちろん)()たれるときにはきちんとお返し申します」

 離れには高級な調度は置いていないようだった。だから貸せるのだろうし、借りる方としても気を張らなくて済む。

 室内を一(べつ)して、トシュが片眉を上げた。

「贅沢を言うようだが、お(ひい)さんには別の部屋を用意してもらうわけにゃいかねえか」

「またまた」

 案内の僧侶は妙な笑みを浮かべた。

「三人ぎりで旅をなさっておいでなのでしょう? お若い方々の間で、何もないことはございますまい」

 僧侶はもう少し続けそうだったし、トシュも(さえぎ)って何か言い返しそうだった。が、実際のところは、湯は借りられるかとジョイドが口を挟んでどちらにも喋らせなかった。それで僧侶は出ていき、後には苦虫を噛み潰したようなトシュと、苦笑いを浮かべたジョイドが残った。

 セディカは首を傾げた。

「どういうこと?」

「俺らのどっちかが君と恋仲だと思ってるみたいねえ」

「……主人と従者なのに?」

 何故そんな仮定が成立するのだろう。

「……うん、おまえが気になんないならいいわ」

 トシュに何だか脱力されたらしいのも腑に落ちなかったが、何かよくわからない勘繰りをされたらしいとは辛うじて理解した。それで大方、正しくはあった。

「あの……何だか……ごめんなさい。マントのこと」

「ああ、なんか変なことになったね。まあ、最悪()られても俺らんじゃないし」

「まあな」

 自分のものなのか、と思う。〈錦鶏〉国王がセディカを指名してあのマントを贈ったのは、二人の主人であるという建前を信じていたためにすぎないはずだが。

「何だか……」

 表現に迷って言い(よど)む。

「しばらく、いい人たちばっかりだったから。ちょっとびっくりしちゃった」

 トシュとジョイドも、〈神宝多き寺〉の人々も、太子も国王も王妃も、間違えて斬りつけてきた将軍さえ、接して気持ちのよい人々ばかりだった。閉口するような、やり返したくなったような相手は久しぶりだ。

「世間は悪い人ばっかりじゃないよって教えられた後には、いい人ばっかりでもないよって教えられることになってるのかな」

 そう受け取ればよいのか。

「長居は無用だな。夜が明けたらさっさと出てこうぜ」

 げんなりした様子でトシュが言った。

「見れば見るほど性格悪いなあ」

「まだ持ってたのかよ」

 ジョイドが()めつ(すが)めつしているのが見覚えのある小刀だと気づいて、トシュは顔を(しか)めた。獅子がこっそり空へ投げ上げてトシュの腕に落とした、あれだ。

「処分する前に、できるとこまで読み解いておこうと思って。……何でもない場所より寺院でやった方がいいかと思ってたんだけど、ここじゃあ法力は期待できそうにないなあ」

「全くだ。〈慈愛天女〉が怒らねえからって調子に乗りやがって」

「君がそれを言うかな?」

 トシュが紙切れを変えて作った仕切りの向こうで、セディカは既に眠っている。セディカが寝るからと灯りも消してあった。衝立(ついたて)なら〈小人の作品〉である例の小屋の中にあるのだが、小屋を展開しないと取り出せない。

 ジョイドは小刀を横向きにして、自分の、というより二人の目の高さに掲げた。

「おまえにはどこまで見える?」

「そうだな」

 じっとみつめてから、見て取れる限り、仕込んである呪術を挙げた。記号や文字を柄や刃に彫り込んだり描き込んだりしてあるものはわかりやすいが、「力を込めて」あるようなものはそうもいかない。

 ジョイドはそのうちの幾つかに同意し、幾つかは少し違うと思うと訂正し、またトシュには見抜けなかったものを幾つか指摘した。鷹と狼では目が違うのだ、それは仕方ない。

「じゃあね、見えないって言ったけど、答えがわかったら――見るんじゃなければ、感じ取れる?」

 神通力と仙術、または妖力と妖術を用いて、ということだ。自力では見分けられなかった呪術の気配を、集中してトシュは探し出そうとした。

 混血とはいえ妖怪の、長くなるだろう生涯を、別にこの二人でひしと寄り添って送るつもりはない。いずれはジョイドの目に頼れなくなるときが来る。それまでにジョイドに追いついておけば、安心して別れられるというものだ。

 そうして起きていた二人は、やがて――異変を感じ取って、顔を見合わせた。

 トシュは蜜蜂に化けると、窓からすいと外に出た。

 揺り起こされたものの、部屋は暗かった。

「緊急事態だ、ダッシュで着替えろ」

「な、何?」

「火事になる。もうすぐ」

 大変なことを言われた。

「か、火事? ……予言?」

 本当なのか、と疑うはずもない。

「寺院の人たちに知らせないと」

「あー……っと、な」

 トシュは頭を()いた。

「寺院のやつらが、俺らを焼き殺す準備をしてるんだわ」

 ここへ来て、セディカは固まった。

「ど、うして」

「あのマントだろうな」

 離れの周りに(たきぎ)を積み上げ、今は油をかけているところだと、告げる口調はあっさりしていた。

「ジョーのやつが知り合いのとこに火()けを借りに行ってるんだが、どうも間に合いそうにねえ」

 ジョイドの首飾りでも防げるかもしれないが、少々冒険だ、という。建物自体が焼け落ちようというときに、その内部にいるわけだから。

 ()き立てられて、とにかく、着替えた。俺が持った方がいいなと、荷物はトシュが全て引き受ける。

「いいか。扉をぶち破ったら、狼に変わる。すぐに飛び乗ってつかまれ」

 例の棒を筆ほどにして、扉を睨んでくるりくるりと二回ひねると、次には丸太ほどにして両手で構えた。気合も入れず声も立てずに、いきなりシュッと棒が伸びて、外への扉を突き破った。戸板が跳ね飛んだ。

 すぐさまトシュは白銀の狼となって身を伏せ、セディカはその背に()じ登った。つかまるといってもどこに、と戸惑う間もなくトシュは駆け出した。

 壊れた扉の間を駆け抜けた瞬間、左右に炎が燃え上がっているのが見えた。後ろで少なからぬ人々が騒ぎ始めた、と聞こえたのは一瞬で、その後は暗い中を駆け抜けるばかりになった。(もっと)も、セディカはしがみつくのに必死で周りに視線を投げる余裕もなかったし、びゅうびゅうと風を切る中にいたのでは(ろく)に目を開けてもいられなかったが。

 幸い、長いことではなかった。スピードが落ちていって、止まった。

「もういいか。下りな」

 指示のままに滑り降りる。トシュは人間の姿になると、さっと頭上を見、足元から頭の後ろへ棒を振り上げるようにした。光が飛んでいき、ぱんと(はじ)けて空中に(とど)まる。ジョイドならみつけられんだろ、と独り言のような解説がついた。ここにいるという合図なのだろう。

「戻っちゃうの」

 セディカは口の中で呟いた。

「ん? 狼でいた方がよかったか?」

 聞きつけられたらしい。

「黙んなよ」

「ううん……あの……失礼かなって」

「あ?」

「……ふかふかで気持ちよかった」

 トシュは(あっ)()に取られてから吹き出した。

「そりゃ、親が子供のほっぺたを()でて、すべすべで気持ちいいとか言うのとはわけが違うわな」

 狼に戻って、どさりと転がる。そら、と促されて困惑した。

「勝手に撫でてきたやつもいるし、俺を寝床にして寝たやつもいるよ。あれはあれで、怖がってないっつうアピールだったんだろう」

「……いいの?」

「まあ、マントの埋め合わせにな」

 結局、やはり、マントはセディカのものだということになっていたらしい。

「普通の狼よりいい毛並みらしいぜ。半分は親父の血のせいで、半分は修行の間中、仙境の木の実や果物ばっかり食ってたせいだからな、気に入ったからって後で狼の毛皮を取り寄せたりすんなよ」

 親父自身は剛毛も剛毛なんだけどな、などと補足するのを聞きながら(ひざまず)くと、ふかふかとした毛皮にセディカは顔を(うず)めた。毛皮に埋もれたくなるような季節ではないけれど、山中だからか夜中だからか、さほど暑くは感じない。

「……マント一つのために?」

 こぼれた言葉は短かった。

「人を、三人も……」

「離れと引き換えにするぐらいの価値はあっただろうな。他の僧侶どもが言うことを聞いたってことは、院主だけが貯め込んでるんじゃなくて、他のやつらにも普段からいい思いはさせてんだろうよ」

 トシュは核心から外れたことを言った。

 目を閉じる。眠ってしまいたかった。ショックに浸る隙も与えず速やかに避難させられた、そのまま速やかに意識を閉ざして終わりにしてしまいたかった。怖い夢を見たなと思いながら目覚めて、身の丈に合わない炎のようなマントに気を張っていたせいだろうとでも、ジョイド辺りに説明をつけてもらいたかった。

 自分であったことがショックなのか、僧侶であったことがショックなのか、よりによって〈慈愛の寺〉と名乗るような寺院であったことがショックなのか、よくわからない。それとも、誰であろうと関わりなく、同じショックを受けただろうか。同じように殺された旅人がこれまでにもいたのではなかろうか、というところまでは頭が回らなかった。

「気分転換に何か話してやろうか」

 トシュの声がした。狼の姿をしていても人間の声で喋るようだった。

「〈世界狼〉は普通、東の果てに繋がれたっていうな。話によっちゃ、退治されたことになってるが」

「〈世界狼の討伐〉」

 セディカはぽそりと口にした。あれは〈武神〉のための賛歌だからな、とトシュは簡単に言った。気の晴れる話ではない、と思う。

「けど、狼の間に伝わる話ではな……っつうのはつまり、単に親父から聞いたってだけなんだが。〈慈愛天女〉が保証人になって、鎖を解いてやったって説もある。もう少し凝ったところだと、解放した後、生きたまま十回地上に生まれ変わらせたって話も」

「生きたまま……?」

「降生とか投胎ってやつさ。神や天人が一時的に人間に生まれることがあんだろ。地上の女の腹に入って人間として生まれて、死んだらまた天に戻るわけだ」

 十回生まれ変わるはずだったところを、九回で本来の体に戻ってきたという話もあるという。それは何かすごいことなのだろうかと考えている間に、まあそれは余談だと流されてしまった。

「十回だか九回だかの人生を地上で送る間に、〈世界狼〉はある女に惚れたんだ。十回を通して一人だけなのか、十回の間に何人かいたのか、恋人や伴侶だけじゃなく友人や子供も含むのか、っつう細けえことは知らんが」

 人間の十回分も生きていれば、そういう相手は何人かできそうだ。

「十回だか九回だかの人生を終えて元に戻ったとき、その女は天界が自分を懐柔するために送り込んだのかと考えて、〈世界狼〉は荒れた。だが、全然そんなことはなくて、その女は純粋に偶然出会っただけで――だから、死んだ後は普通に生まれ変わって、つまりもういないってことを知って、また荒れた」

 胸が締めつけられるのをセディカは感じた。あの世にすらいない――とは、想像したことがなかった。

「それで天は〈世界狼〉に、地上で生まれ変わったその女をみつけたら、望むままにどんな加護でも祝福でも与えてやるって約束をしたんだと。……みつけてやるわけじゃねえところが(ずり)ぃよな」

 途方もない話だ。それとも、神獣には人間が思うより現実味のあることなのだろうか。広い広い世界で、たった一人を――もしくは何人かを、捜すとは。

「結局、〈慈愛天女〉の(もく)()()通りになったわけさ。人間として生きる間に地上に思い入れができて、それが地上のどこにあるかはわからなくなって……おかげで、地上を滅ぼせなくなった。実質的に天も滅ぼせなくなった。天が滅びりゃ、地上だって(たま)ったもんじゃねえからな。そもそも地上を滅ぼしたくて大地を食ってたわけでもねえが」

 体のいい人質だ、と狼は鼻で笑った。

「それから〈世界狼〉は、地上に見合った体で地上を巡っては、愛した女だか親友だか子供たちだかを捜してるんだと。みつけたところで、また死ぬからな。相手が一生を終えるまで添い遂げたら、またやり直しだ」

 それを、続けるのだろうか。時の流れの中で、想いが薄れ、愛が()せてはいくことはないのだろうか。出会うたびに、共に過ごすたびに、新たになっていくものだろうか?

「親父が言うにはな。俺も狼なら、天に逆らってでも戦うときが来るかもしれんし、天に媚びてでも守りたいものができるかもしれんとさ」

「それが、トシュのお父様にとってはトシュのお母様だったの?」

「さてな。あの夫婦のことはわからん」

「……トシュにとっては、ジョイド?」

 短い沈黙を挟んで、トシュはほっと息を吐いた。

「どうしてそう思った」

「ジョイドがいないときに話すから」

 なるほどな、と苦笑めいた呟きが返る。

「逆だと思うがなあ。あいつの方が、俺を狼嫌いなやつらから守ろうと必死だ」

 狼の青年は一般論めかした。

「あいつは、妖怪の中でも上流の血を引いててな――力の強さとかいうより、身分的な意味でな。あいつの身内の中には、俺みたいなやつがあいつとつるむのが気に食わんっつうやつもいるわけさ」

 人間と変わらん、と吐く。

「だから、俺はおまえみたいなやつは率先して助けることにしてんだ。あいつの身内がいちゃもんをつけてきたときに、実績で殴り返せるようにな」

 それが天の神々を指すとは、無論、セディカは想像もしない。

「あいつのためだよ。あいつが胸を張って、俺を相棒だと言えるようにだ。それが親父の言う、天に媚びてでも守りたいってことかもしれんわ、確かに」

 話すうちに開いていた目を、セディカは再び、そっと閉じた。

「いいな」

 自分にそうした友はいなかった。

 無論、誰かが自分にとってそうした友にならなかったということは、自分も誰かにとってそうした友にならなかったということだ。とはいえ、トシュとジョイドだって、努力だけで互いをみつけたとは思われない。最初の奇跡が、幸運が、あったに違いないのだ。

「おまえはまだ十三だろ。俺があいつに会ったのは十五、六のときだぜ」

 憐れむでもたしなめるでもなく、そんな指摘が来た。

「十三のときは……。十二のときに初めて、親父の息子だってんで退治されかけてな」

「退治?」

 はたと目を開けて、身を起こす。

「それで、十三のときは荒れてた。荒れた勢いで何かやらかしてたら、今度こそ本当に退治されてたかもしれん。そしたらジョイドには会うこともなかった」

 狼はただ寝そべっていた。当時の怒りや恐れを蘇らせる風はなかった。

「そりゃ、誰にでもジョイドが現れるわけじゃねえが。真っ当に生きてりゃ、現れたときに堂々と手を取れるってわけだ」

 こちらを向かない頭の後ろをしばしみつめてから、少女は再び毛皮の中に上半身を投げ出した。

「いい話だったわ」

 社交辞令ではなかった。口元は自然と(ほころ)んでいたし、目を(つむ)って耳を(ふさ)いで全てを遮断したいような気持ちはいつの間にか去っていた。

 どんなに恐ろしい人間がいようとも、どんなに残酷な人間がいようとも。同じこの世にトシュとジョイドもいて、――しかも、今、セディカはその庇護の下にある。

 打ちのめされる必要など、ない。

「……嫌いだなんて言ってごめんなさい」

「あん? ……ああ、三味のことは悪かったよ」

 嫌いだと(わめ)いたのはその一回だけではなかったはずだけれども、トシュはそのときに限定した。

「虎どのに直接気に入られれば有利になると思ったんだけどなあ。そうそう魂胆通りにゃいかねえな」

 あれも自分のためだったかと、少女は苦笑した。今さらそんな種明かしをしてくるなんて――嫌いだとは言わないけれど、狡い。

「セディは寝てるの?」

 ジョイドが鼻先に舞い降りてきた。

「あ、小屋は俺が持ってんのか。渡しとけばよかったね」

「火除けはどうした?」

「借りられなかった。というか、貸したってどうせ間に合わないだろって」

「……雨乞いをできるようになっとくべきだなあ」

 ついそう言ったものの、雨を呼んで火を消してしまえば、別の方法で殺しに来ただけだろう。燃えているように見せかけながらこっそり防ぐ方がやはりよかったはずだ。ついでに、実は焦げ一つついていないことを朝になってから見せつけて、向こうの肝を冷やしてやれれば申し分なかったのだが。

「あの獅子に習えばよかったねえ」

「過激な冗談言うなあ。それよか、お(ひい)さんをうまく起こして、小屋の方で寝させてくれよ。朝まで寝床になっちゃいられん」

 はいはい、とそちらへ回りかけて、ふとジョイドは足を止めた。

「無事でよかったよ」

「おうよ」

 大袈裟だなどと茶化すことなく、トシュはそうとだけ応じた。

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