亡き母の父、即ち祖父の実家へ行くように、という父の指示は唐突だった。本家に適当な女児がおらず、七年に一度の祭祀が行えないので、未婚の娘を借りたいと依頼があったのだという。本家に女児がいないわけではなく、嫁いでしまったか幼すぎるかで巫女役を務められないということらしいから、今回一度限りのことだ。拒むことでもあるまい、助けてやるといい、ついでに異国見物でもしてこいと言われて、疑いを抱く道理もないと言えばなかった。

 末子であった祖父は(ほん)放で、家を飛び出し国を飛び出してあちこち旅をしたらしいが、大陸の東端から帝国を横断して生国へ戻る途中、祖母と結ばれ、母の誕生を待たずに去ったのだという。自分の姓名を特に()()()すこともなく、故郷が生国のどの地であるかも包み隠さず教えていたから、祖母は祖父の実家を突き止め、女児が生まれたと伝えることができたらしい。そのように話だけは聞いているけれども、実のところ祖父の実家とは交流らしい交流もなく、親族意識もあまりないのが実態であった。

 そんなところからそんな話が急に来たというのは妙な気もしたけれど、父親がそう言うのだ、そうですかと信じるしかないではないか。やけに甲斐甲斐しく世話を焼き、従者を選んで旅の準備を整える様子が、普段とあまりにかけ離れているからといって、薄気味悪いともまさか言えない。その割にはつけられた従者は二人きりで、()()みのない異国に出向くにしては少ないように感じたけれども。

 山を越えると聞いたときもおかしいとは思った。()回すると時間がかかりすぎて、肝腎の祭祀に間に合わないのだと説明をつけられれば、けれども代わりの道は提示できなかった。どんなに怪しくとも、代案を出せなければ黙るしかないのだ。腑に落ちないことばかりで、いささか投げやりになっていたところもあるだろう。

 その結果が――これ、だ。

「セディカ゠ミクラ」

 名乗ると二人は顔を見合わせた。

「……トシュだ。トシュ゠ギジュ」

「俺ぁジョイド゠ハックね。ジョーでもいいよ」

「何それ」

 トシュは胸の前に両手を上げて、ジョイドは軽く上げただけの片手で、奇妙に指を動かしたのでセディカは瞬きをした。

「名前なんてホイホイ教えるもんじゃないでしょ。相手が」

 に、とジョイドの唇が裂ける。

「妖怪だったらどうすんの」

 つい先ほどそうとも知らずに妖怪の(つど)いに乗り込んでしまった身としては、いささか笑えない冗談であった。

「名前を知らせるっていうのは、自分を開けっ広げにするっていうことだからね。本名でなければ構わないって考え方もあるけど、通称ですら危ないって考え方もある」

「つって、そんなこと言ってたら名乗りようがねえからな」

 ゆっくりと再び、トシュが同じ動きをしてみせた。

「言ってみりゃ、名乗り限定の守護の印ってわけだ」

「……妖怪は見分けられるんでしょ?」

「ああ、君が妖怪だって可能性を考慮したわけじゃないよ。妖怪だの仙術だのっていう世界に首を突っ込んでると習慣になんの」

 トシュが合流した後、ジョイドは先を見てくると一人で走っていって、すぐさま小屋があったと朗報を持って戻ってきた。無人のその小屋に上がり込み、ジョイドが取り出した灯りを点けると、少女と青年たちは改めて向かい合った。

 トシュの棒もジョイドの杖も見当たらない、思い返せばあの(うたげ)の場を離れてから目にした記憶がないことにセディカは気がついたが、そんなことを問い(ただ)す前に、自分のことを話すべきだろう。大体、髪の毛を三味に変えるところを目の当たりにした後では、棒を一本どこへともなく消したくらいで驚いてよいものかもわからない。

「ちなみに幾つだ、おまえ」

「十三だけど」

「……まあ、十五前なら子供でいいだろ」

「そっちは?」

「二十五? 四か」

 実は一千歳を超えた仙人であるなどと言われたらどうしようかと少し冷や冷やしたが、見た目の印象は特に裏切られなかった。

「で、何があった。やつらが人里までわざわざ誘い出しに行ったわけじゃねえだろ」

 トシュの問いに、知らず、セディカは苦笑した。訊かれたかったわけではないが、訊かれて然るべきだとはずっと思っていたので。

 付き合いのなかった異国の親戚の家へ、父の指示で向かう途中だったのだと、大雑把に説明する。従者二人と一緒だったと聞いてトシュが目を円くしたのは、従者を連れるような身分だとわかったためかもしれない。

「なるほど、俺らが聞いたのは多分、そのいなくなった二人を呼んでる声ね」

「異国の親戚ってのは……ていうか、あんたは帝国の人間でいいんだな?」

「ええ。〈世を幸いで満たす寺〉がある町の人間よ」

 地名で答えるよりもわかりやすいだろう。名刹〈世を幸いで満たす寺〉は帝国の内外に広く知られているはずだ。

「あなたたちは? どこの人なの?」

「俺は――大陸の東端っつった方が早いな。ここいらじゃ名前言っても通じねえ」

 ()三味なんて言い出すからびっくりしたわ、と東の青年は歯を見せた。想定外の遠方にこちらもびっくりする。大陸の果てと言えば遠すぎるものだから、帝国と接していないからとて(さげす)まれる地域を越えて、逆に憧れられる傾向にあるぐらいだ。

 だが、

「生まれで言ったら、俺は〈(きん)()が羽を休める国〉の出身よ。しばらく帰ってないけど、ちょうどここからだと近いね。この山を越えたら割とすぐだ」

「〈金烏〉?」

 大陸の果てに比べれば物珍しさも何もない西国の名前にこそ、セディカは目をいっぱいに(みは)った。

「わたし、あの、お祖父(じい)様が――母方の祖父が、〈金烏〉の人間で」

「おやまあ! それは縁だねえ」

 その答えは少女の警戒を一気にほとんど解き去った。ならば――大丈夫、だ。

「だから、あの、異国の親戚って、お祖父様の実家のことで。お祖父様本人が〈金烏〉に戻ってるか、また国を出てどこかに行ってしまったか、ひょっとしたらどこか違う国に住み着いてたりするのかはわからないけど。……訊かれるまで黙っておこうかとも思ってたんだけど」

「……ああ、なるほど。苦労したんだね」

 汲んでくれたらしい。これで通じるのも複雑ではあるが、その何が問題になるのかと問われて説明させられたらその方が辛い。

 一部の、しかしながら少数ではない人々にとって、帝国の外の血は本質的に価値の低いもの、蔑まれて然るべきものであり、その血を引くことは埋め合わせようのない欠陥だ。別の一部にとっては、埋め合わせなくてはならない欠陥だ。西国の血が流れているぐらい何だ、君は君だと励まされたことがある。半分西国人であるとは思えないほど、できた人間だったと母を褒められたこともある。

「それでも、マシな方ではあったんだと思うわ。〈幸いの寺院〉があったから」

 お膝元の住人は〈世を幸いで満たす寺〉を通称で呼んだ。先代の院主が啓(もう)に努めたおかげで、それ以前と比べて大分変わったらしいのだ。先代ほど熱心ではないにせよ、現在の院主もその姿勢を受け継いでいる。

 とはいえ、帝国の外を見下す意識が一掃されたわけではなく、激減したとも言えなかった。残るところにはそれだけ根強く、ひょっとしたら頑なさを増して、残っている。にも(かかわ)らず、差別はすっかり撤廃されたものと楽天的に思い込んでいる者もあった。セディカに励ますつもりの言葉をかけた幾人かのように、それが差別的な言動であり意識であることを自覚せず、理解ある味方を自認する者が一番厄介かもしれない。

 そうした町であったからこそ、父は母と結婚したのだ。結婚したときには、母が異国の血を引くことも、ついでに片親育ちであることも問題にしていなかったのだ。否、問題にしないことこそが粋だとか、クールだとでも思っていたのだ。――陶酔していたのだ。差別心のない自分、という幻想に酔っていたのだ。いざ結婚してみたら、思った以上に風当たりが強くて酔いが醒めたのだろう。

 セディカは酔いが醒めた後の父しか知らない。母が結婚を決めたときの父を、その面影を、名残を知らない。粗を探して、みつからなければ難癖をつけて、西の女めと母を罵倒する父しか、知らない。

「ん? 親戚の家に行けって言ったのは親父さんだよな?」

「うん。……お母様は、五年前に亡くなった」

「……そう。お母様の魂に平安を」

 神妙にジョイドが祈りを捧げ、慌てたようにトシュも(なら)った。

 セディカは(こぶし)を握った。

「祭祀だなんて、嘘だったんだと思う。お父様に聞いただけで、〈金烏〉から使者が来たわけでもないし、手紙が来たのを見せてもらったわけでもないもの。――そもそも、〈連なる五つの山〉を越えるだなんて。おかしかったのよ、何から何まで」

 帝国と西国の一部との境界を成す五つの山。迂回すれば無論のこと時間がかかるけれども、それでも迂回する道(のり)が一般的なのは、一つ一つが大きく深い山であるからだ。立ち入る者はあっても越えていく者は稀だと聞く。

 何から何までおかしかったのに、どうして従ってしまったのか。受け入れてしまったのか。目を(つむ)ってしまったのか。

 ……まさか自分の父親が、悪事を企むとは考えなかった、のだ。あるいは、まさか自分の身に、悪しき企みが降りかかるとも思わなかったのだ。

 父が、自分を。捨てる――追い払う――死なせようと、する――など。

「いや、俺らは越えようとしてんだけどな。結構奥まで道あるし」

「俺らはね。旅慣れない人間や、お嬢様が通るルートではないでしょ」

 トシュの呟きにセディカははたと、何か手痛い失敗でも発覚したかのように固まってしまったが、ジョイドの返しでトシュの方は納得したようだった。

「連れの二人と、多分すれ違ったよな?」

「狩人でも木(こり)でも、山の向こうから来た感じでもないとは思ったのよね。ご主人様の娘さんを見失って慌ててるって風ではなかったなあ」

「被害妄想の線は薄いか。残念ながら、ってとこだな」

 実の親がそんなことをするものか、と反(ばく)されなかったことを喜んだものだろうか。

 ううん、とジョイドが(うな)る。

「しかし困ったね。家に送ってあげても意味がないし、初志貫徹で親戚の家に連れていってあげてもしょうがないってわけ」

「行くだけ行ってみてもいいんじゃねえか。親戚がいること自体は事実だろ、それは普通当てがあるって言うぞ」

「それは言えてる。とりあえず目指してみるのはありかもね。どうする?」

 二人で話し合っていると思ったら、急に決断を求められて戸惑う。ずっとセディカのことを話してはいたのだが。

「どう……」

「ああ、慌てて決めなくていいよ。どうせ今日はもう動かないでしょ」

「……どうして?」

 ずっと(ひそ)んでいた疑問が口を()いた。

「わたしは、ありがたいけど。そこまでしてくれる理由……」

 父の家まで送る理由も、親戚の家まで連れていく理由も。そもそも、あの宴の場から引き離す理由だって。縁もゆかりもないこの二人に、あるはずがないのに。

 一度きょとんとしたジョイドの顔が、そんなことか、とばかりに緩む。

「ここが町中ならそこまでしないけどね、山の中だもの。じゃあさよなら、ってわけにはいかないじゃない」

「中途半端な手助けだったら、ない方がマシだしな」

 トシュの方は何か忌々しい過去でもあるのか顔を(しか)めている。

「ここで放り出されて野垂れ死んだり、山を下りたとこで放り出されて路頭に迷うぐらいなら、やつらの中に放っとかれた方がよっぽど幸せだったさ。ひたすら楽しく喋ってるだけで一生だって過ごせたろうよ」

「別に、身の振り方が決まるまで面倒見ようってわけじゃないからね。親戚さんに引き渡したら多分そこで終わりよ」

 そんなに気にすることじゃないの、と手を振るジョイドに、親戚ってのがヤバそうなやつらじゃなければなとトシュが言い添える。理屈はわかるけれども、理屈通りに実行するのは、かなり――親切なことではないかと、思うのだけれど。

 セディカの荷物の中身は主に着替えで、食料は入っていなかった。何かしらの理由で荷物を改められた場合、少女の服になど出てこられては怪しまれるから、一緒に捨てていったということなのだろう。

 もう今さら驚かないが、蒸しパンやら餅菓子やら干し果物やら(きのこ)やらを、ジョイドがセディカの分まで並べる。セディカは手を合わせて食前の祈りを口にした。帝国の言葉ではない、〈金烏〉の言葉でもない、〈金烏〉の古語だということでもないらしい。母から教えられたもので、食堂へ向かう前にこっそりと、父に隠れて唱えておくのが常だった。父がこの習慣を気に入らずに怒鳴ったことがあったのか、母が最初から秘密にしていたのかはわからない。こうして本当に食事の前に唱える機会が巡ってくるとは。

「……今のって」

 見れば、二人が妙な顔をしていた。

「お祈りだけど。食事の前の」

「お祈りっていうか、結構ちゃんとした守護呪だったよ?」

「……守護呪?」

 今度はセディカが(あっ)()に取られる番だった。

 もう一回聞かせてくれと請われて、困惑しながら繰り返す。相手は意味を理解できるらしいと思うと、文句を間違えていたらどうしようという方向での緊張も少しした。

「やっぱ〈慈愛天女〉の加護か。この長さじゃ効果の高は知れてるにしても、食事の前ってことは毎日三回ずつ唱えてるわけだな?」

「それじゃ、置き去りにされることまでは防げなくても、同じときにちょうど俺らがこの山に入って声を聞きつける、ぐらいの効果はまああるかもね。俺らも〈慈愛神〉には頼りがちだからねえ、信徒同士で助け合いなさいって言われてんのかな」

 〈慈愛天女〉。〈慈愛神〉。耳慣れない名ではなかった。他にも〈慈悲神〉、〈慈悲神仙〉、〈慈愛の御方〉などと、宗派や時代や地方によって様々な呼び方を持つ、人気の高い神である。セディカが馴染んでいるのは〈慈しみの君〉で、民間には恐らくこれが最も浸透している。

 耳慣れない名ではない、が。……その、守護呪……?

「誰に教わった、食前の祈りだなんて」

「……お母様。……西の習慣だと思ってた」

「何もんだ、おまえのお母様は」

「少なくとも俺がいた頃には、そんな習慣は聞いたことなかったなあ」

 無理を言われたときのような苦笑いをしてから、ジョイドが真面目な顔になる。

「お母様は、君がいつか酷い目に遭うんじゃないかって心配してたんだね。かといってあんまり小さい子に、他人の悪意から身を守るための呪文を毎日唱えなさいね、とも言うに言えなかったのかな」

「……わたし、わかってなかったのに」

 返答とも独り言ともつかず、セディカは呟いた。

 日々繰り返し唱えていても、そこに〈慈しみの君〉に(すが)る気持ちは全くなかった。あるのはその日の(かて)を得られたことへの感謝であって、〈慈しみの君〉よりも〈実りの君〉に向けたものであったろう。それでも、この守護呪に効果があったのだとすれば。お守りください、と祈り続けていたことになるのだとすれば。

 祈っていたのは、自分ではなく――母だ。

 トシュが蒸しパンを取り上げて(かぶ)りついたので、セディカも同じパンを手に取った。食べ始めるところだったのに、いきなり腰を折ってしまった――折られてしまった、のかもしれないが。

「わたしからも訊いていい? 二人は……どこへ行くところなの。〈連なる五つの山〉を越えるなんて」

 二人のことを問うたのは、ことさら話題を変えようとしたわけではない。純粋に不思議だったためでもあるが、主には自分のことばかり喋っているような気がしたためだ。

「どこってことでもないのよ。集団生活が得意じゃないから、基本は旅暮らしなの。だから時々変わったルートを取ってみたくなるわけ」

「たまに人目のないとこに行きたくなるってのはあるな。人目がなけりゃ、術を使って騒がれることもねえし」

 敢えて山道を採りたい理由も仙術なら、山道を採れる理由も仙術らしい。危なくなったら飛んで逃げればいいからね、と言われればわからなくはない。

 といっても、セディカは仙術のことなど何も知らない。トシュの手に三味が現れた、あの瞬間まで見たこともなかったし、仙術使いが現れたと町で噂を聞いたこともない。常人には叶わないことも容易に果たせるのだろう、と無根拠に想像するだけである。

「あの赤い棒も――何て言えばいいの、……髪の毛、だったの?」

「いや?」

 トシュは肩の辺りから何かを引き抜いて、掌に載せて差し出した。待ち針のようだが、待ち針にしては球が両端についている。……今、刺さっていたものを抜き取ったように見えたのだけれど。

 どういうことかと問う前に、針は不意に筆ほどの長さと太さになり、次いで麺棒ほどになった。指を曲げて握れば長さだけが物干し竿(ざお)ほどになり、頭の上に掲げると今度は太さが椀ほどにもなる。それからひゅっと手の中に戻ったのを見れば縫い針になっていて、トシュはそれを上着の肩にすいと刺した。手が離れたときには、また球が両端についた待ち針に変わっている。これなら抜け落ちる心配もないし、自分に刺さる心配もないわけだ。

 ジョイドも同じように肩から針を外して、はたき程度の大きさの杖にしてみせた。先端の金輪が聞き覚えのある音でシャラシャラと鳴る。

「仙術って、何年も修行を積んで使えるようになるものだと思ってたんだけど」

「俺らは特別よ、親の血のおかげでね。生まれつき、才能っていうか、適性があったの。これに関しては俺らの力より、これ自体の機能の方が大きいけど」

 仙術について根掘り葉掘り聞き出したいわけではないけれども、流石(さすが)にさらりとは受け流せずに、セディカはつい、いつになくあれこれと尋ねてしまった。そろそろしつこいだろうか、普段を知らぬ二人にはただの詮索好きとしか映るまいと口を閉じたとき、

「それを言ったら、君が破魔三味を()(こな)したのも俺は驚いたんだけど。難しいんじゃないの、あの弾き方」

 内面を読んだかのように、久しぶりにジョイドがセディカのことを訊いた。

「破魔三味はお祖母(ばあ)様に習ったの。元々はお祖父様が、東国にいた間に覚えたんだって。それをお祖母様に教えて、持ってた破魔三味もくれたんだって聞いてる」

「そのベールも何かあんのか? 尼僧でもないのにベールをつける習慣なんて、南ならともかくここらにはないだろ」

「ああ、これは」

 便乗するようなトシュの質問に、頭へ手をやる。凝ったものでも洒落(しゃれ)たものでもなく、ドレスと合わせるような素材でもデザインでもなく、正にトシュが言及した、尼僧が使うものに近かった。首までは隠さないけれども、髪は(おおむ)ね見えなくなる。前髪も、額も。

「ベールじゃなくてもよかったんだけど。旅先じゃあ、誰もわたしのことなんて知らないし、気にも留めないでしょう。目立つ格好をしていれば、何かあったときに『あのベールの子だ』とは思ってもらえるかと思って」

 いなくなった従者たちが、来たときと同じ道を帰るとしたら。一度自分を見かけた誰かが、あのベールの子はどうしたんだい、と不思議がってくれるかもしれない。

 確かに記憶には残るな、と相槌を打ったトシュは、言葉に反してすっきりしない顔をしていた。セディカが眉を寄せたのは、気を悪くしたためではなかった。

「変に思う方が自然なのよ。何も訊かないから、あの人たち」

「あっは、さっきの木々ね。あれは仕方ないところもあるのよ。こんな山の中じゃ、千年生きてたって人間を見かける機会は数えるほどだもの」

「あいつらは自分のことにしか興味ねえだけだろ」

 ジョイドの擁護に、セディカを差し置いてトシュが噛みついている。少し笑って、少女は干し果物をつまんだ。濃い黄色の切れ端であって、白でも橙でもなかった。

 何も人との会話に飢えていたわけではないけれど、その前にぶつかった集団がああだったせいか、妙にありがたみを覚えてしまう。話が通じている、成り立っている安心感。

 いや、そうでなくとも、山の中に一人置き去りにされて、途方に暮れていたところなのである。こうも()(さい)な、わざわざ意識せずともよいようなことが、不当なほど響いても無理はないだろう。

 二人を信用してよいものかはわからない。父だって従者たちだって、まさか自分の命を危うくするとは思ってもみなかったのだ。暗闇の中にただ一筋見えた光が、だからといって正しい道であるとは限らない。

 だが、今は。

「寝たねえ。安心できたのか疲れ果てたのかわかんないけど」

 折り畳み式の衝立(ついたて)の向こうをジョイドが覗いている。よくそんなものを持ち合わせていたなとトシュは思ったのだったが、正にこういうときのためだよ、ということだった。少女を拾って同室で休むような機会に、そう何度もぶつかるとは思われないが。

「ベールをナイトキャップ兼用にするって習慣は聞いたことないけどなあ」

「うん?」

「いんや。客観的に、変わった子ではあるよなと思って」

「西の血を引いて、東の三味を弾いて、南でもないのにベールをつけて、食事の前に〈慈愛天女〉の加護を祈って、だもんな」

 トシュは胡坐(あぐら)を組んだ足を使って頬杖を衝いた。

「起きたら茨に囲まれてたっての、〈迷いの茨〉っぽいよな。そこまでするもんか?」

「手にかけろとまでは命令できなかったんじゃないの、流石に。親子の情がなくたって、人殺しには普通に抵抗あるでしょ」

 応じながら、声を落とせとジョイドが手振りで示す。とはいえ、少女の身に今日降りかかったことを思えば、今夜は全く寝つけないか、泥のように眠り込むかのどちらかになりそうだ。つまり、現に眠れているのであれば、多少の話し声くらいで目を覚ますこともあるまい。

「お偉いさんの家なら、襲撃されたときのために元株を持っててもおかしくないし。子供一人を迷子にさせるためなら、棘一個分折り取れば足りるだろうし。そりゃあ、ちゃんと使ったら城だって(まも)れる道具だけども」

「結局抜け出せてるってことはその程度ってことか」

「ばっちり殺意があっただろうことに変わりはないけどね」

 示し合わせたかのように、二人は衝立へと視線を投げた。

 十三歳、と聞いた。五年前、ということは八歳のときに、母とは死に別れたと。従者たちが消えたのは父の差し金であったと疑わない様子で――疑わないような間柄であったわけで。

 無論、一方的な言い分にすぎないけれど。

「……さっさと片づけようぜ。女子なんざ長々と連れ歩くわけにもいかねえだろ、(はた)から見たら人(さら)いだ」

「あの子が心配だとか可哀想だとか言っても別にからかわないけど?」

「そうわざわざ口に出すのはからかってるって言うんだよ」

 じろりと睨みつけたが、相棒はどこ吹く風であった。

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