四葉が見当たらない。
ということは、例によって例の場所にいるのだろうか。たまには外に出ろと昨日言ったばかりなのに。
「ま、今さら急に元気になったりはしないだろうけどさ」
にしたって、と緑樹は独りごちた。わかった、ありがとう、ごめんね、と殊勝に答えたのは何だったのだ。
いや、一度は忠告通りに外へ出てみたに違いない。素直で律儀な四葉のことだからきっとそうだ。けれども気分転換にはとてもならなくて、早々に引き上げてしまったという辺りだろう。
追いつめられていくばかりだろうに。
「……しょーがねえなあ」
誰に見せつけるでもなく、がりがりと頭を掻き毟る。勝手にしろと放っておける自分ではない。大体、昨日も今日も恐らく明日も周辺をうろちょろしているのだから、五十歩百歩もよいところ、人のことを言えた立場ではない。
病室へ行ってみれば案の定、四葉がベッドの傍らに石像のように座っていた。来訪者に気づいていないのか、気づいても相手にしていないのか、今は後者かもしれないと思いつつ、存在を主張すべく大袈裟に溜め息を吐く。
「まーだいたのかよ。おまえがそばにいたって何もならないだろ」
「わからないわよ」
振り向かずに四葉は答えた。意地を張るように、と表現するには弱々しかった。
あのな、と腕をつかんで立たせる。そうすれば大人しく立ち上がるのが擦り切れている証拠だ。
「おまえが参っちまうっつってんだよ」
参りもするだろう。人工呼吸器やら心電図やらに囲まれ、チューブに絡みつかれた友人の姿を、来る日も来る日も長時間みつめていれば。
――おまえもいつまでそうしてんだよ、一馬。
ちらりと見やって、すぐに目を背ける。おまえがそうだから、四葉がこうなるんじゃないか。
そのまま引っ張ってロビーに連れ出し、革張りの長椅子に並んで、というよりも並ばせて腰かける。虚ろな瞳がここへ来てようやく緑樹を映した。
「緑樹だってここにいるじゃないの」
「半分はおまえのせいだっつの」
四葉が入り浸らなければ、自分もここまでは通いつめない。
事故があったのは修学旅行の帰り、解散して家路に就いた二、三十分後のことだった。幼馴染みの三人は同じバスに乗っていた。一つだけ空いていた席には当然に四葉を座らせて、緑樹は手摺につかまり、一馬は吊り革を握ったのだった。穏やかに談笑していたそこへ、他のバスが突っ込んできて――。
あれから二ヶ月、一馬は意識が戻らないまま今も病室にいる。容態は不安定で、いつ目覚めても息絶えてもおかしくなかった。一馬がそんな具合だから、四葉の心もいつまでも安定しない。二人がそんな調子だから、自分も日々無意味にふらふらしている。生殺しとはよく言ったものだ。
「――緑樹」
「ん」
「あたしね、昔から……一馬と緑樹のどっちが好きなんだって、よく訊かれたの」
掠れる声が告げたことは、別に未知でも意外でもなかった。少年二人に少女一人という組み合わせ、しかも幼馴染みと来れば、そういう興味を刺激しても不思議はない。
「でも、そういうんじゃないじゃない。ずっと三人で一緒だったじゃない。三人――だったじゃない。嫌なの、一馬一人だけ……わがままだけど……」
幼稚園に入るよりも前からの付き合いで、クラスこそ違うことはあっても学校自体は高校まで同じで。一人だけ、一馬だけが、一時的にならともかく永久的に、抜けてしまうなど想像できないと。
――ほんと、正直なやつ。
震える肩を抱き寄せる。四葉の方も縋るように身を寄せてきて、啜り泣きが静かにこぼれた。
ここにいるのが自分でなく一馬で、ベッドにいるのが一馬でなく自分だったとしても、四葉は同じように自分を見守り続け、同じように一馬に泣きついただろう。自分が相手なら別れの覚悟を決められたわけではないだろうし、一馬が相手なら弱音を吐けなかったということもないだろう。順位を、上下を、優劣を、つけられるような存在ではない。どちらかを失ってもどちらかが残れば諦めがつくようなものではない。四葉にとって自分と一馬は、同等で、同質で――互換可能な存在なのだ。
いつまでそんな間柄でいられるものだろうと、ふと思う。それが通用するのは子供のうちだけで、いつかはただ一人を選ばざるをえないものだろう。四葉が選ぶただ一人は自分でも一馬でもないかもしれないけれど、ならばなおのこと、三人でいるわけにはいかなくなったはずだ。事故がなくてもそのときはやがて訪れたのであって――。
……つっても、現に今、こういうことになってんだからな。
「な、四葉」
囁いた声は思いの外に暗く固かった。慌てて明るくなるよう努める。
「覚えてるか? いつだったか図工で、時間内に描き終わんなかったことあったろ」
「……小四だよ。展覧会のとき」
しゃくり上げながらも答えるのが四葉らしいところだ。
「展示するから、授業中に終わらなかった人は昼休みに集まって仕上げたの」
「一馬のやつ最後まで残ってたんだよな」
「丁寧だから……妥協しないし」
あたしみたいにトロいわけじゃないよ、と付け加えたのは聞き流した。
「あと、小六のときの移動教室。遅刻ぎりぎりだったじゃん? ああいうイベントのときに遅れるとかないだろ、普通」
「ああいう行事、好きじゃないから。本当は、行きたくなかったんじゃないの」
「俺もそー思う」
協調性ないんだよ、と呆れ返った風に言えば、ふふっと微かな笑い声が立った。それは安心してよいところか、それとも突っ込むべきところか。
「ま、要するにさ。あいつってクールな顔して、結構平気で遅れるわけよ」
「……そうだね。そうかも」
「だから、いつものことなんだよ。まーた周りの迷惑無視してゆっくりしてんだ」
辿り着いた。
今度は返答がなかった。軽い調子で言い放った後は、緑樹も口を噤んだ。
半ばは自分への励ましだった。いつものこと。煮え切らないだけのこと。慎重になりすぎているだけのこと。自分たちから離れてはいかないという決断を、最後にはきっと下すだろうと――期待するのは、勝手であろうが。
しばらく経ってから、ありがと、と四葉は呟いた。とりあえず、浮上してきたようだ。尤も昨日も一度はこうして、気持ちを切り替えたとまでは言わずとも、切り替えようと前向きになったような様子は見せていた。油断はできない。
「……ねえ」
「ん?」
「一馬がさ。先生からかばってくれたこと、あったよね」
「……心当たりありすぎてどれのことかわかんないんだけど」
緑樹ったら、と笑う声は先ほどよりもおかしそうで、先ほどよりも元気になったらしいのはよいものの、複雑な気分で少年は顔をしかめた。
「どのときっていうわけじゃないんだけど。自分の損になっても、味方してくれてたなって思って」
……ああ。
「そういうやつだよ」
「うん。優しいんだ」
「そーかあ? 優先順位間違えてるだけじゃねーの」
「そんなこと言って」
ぽつぽつと言葉を交わしながら、長いこと二人はそこにいた。語る思い出は尽きないほどある。家族に劣らず、ひょっとしたら家族より、近しく過ごした十七年。
「──あ」
息を呑むように四葉が呟いたのは、ある人物が病院に駆け込んできたときだった。この二ヶ月に幾度となく見かけた、幼い頃からよく見知った顔──一馬の母親が。
何があったかは一目見れば明らかだ。顔を見合わせるなり二人は飛び出し、先を争うように病室へ向かった。
ノックもせずに駆け込むと、二人を認めて一馬は瞠目した。
「──いたのか」
「ったく、おまえは! 俺らがどんだけ気ぃ揉んだと」
「悪かったな。──泣くなよ」
「だって……だって」
口を押さえた両手の下で、嬉しい、と四葉は言った。一馬は苦笑して、同い年の少女の頭を軽く撫でた。
ああ、選ばなくて済んだのだなと感じた。自分たちの少なくともどちらかを、手放す瞬間は迎えずに済んだのだ。よかったじゃないか――これで。
「行くぜ。待たせやがって」
「急かすなよ、そう──」
やんわりとした反論が終わらぬうちに、足音が聞こえて一馬ははっと言葉を切った。
だから言ったろ、と半眼で睨みつけてから、肩を竦めて緑樹は手を差し伸べた。少々気まずそうな、負けたような笑みを浮かべて一馬がその手を取る。反対の腕にほとんど抱きつくようにして、四葉は心底幸せそうに緑樹を見返った。
正にそのとき、ドアが凄い勢いで開いた。その場に数秒立ち尽くしてから、一馬の母親は泣き崩れた。
「あの三人、仲よかったから。四葉と緑樹が呼んだんだね」
一馬の訃報に級友たちはそう噂した。
これで、と緑樹は思う。まだ当分、三人一緒だ――自分たちの少なくともどちらかが、いつかは手放されることになるとしても、それはまだ、先のことだ。こんなに早く、こんなに急に、そのときを迎えなくたって――いい。
<End>