「やだ、やだって、嫌ですって」
優馬は必死になって両手をばたばたと振ったが、斜向かいにいた康熙はうんざりした様子ながら立ち上がってこちらへやってくる。そっちも嫌がれよ、と恨むのは幾分筋違いで、恨むべきは無論、罰ゲームなどと言い出した先輩陣である。
キスを十秒間。
部活の打ち上げに来てしまえば、こういった悪ふざけに巻き込まれる可能性は十分考えられた。自分が被弾するとは思わなかっただけで。だからといって。
「来んなよおまえ!」
「腹括れって、罰ゲームなんだからしょうがねえだろ」
罰ゲームにそんな権威を認めた覚えはない。
座敷だから他人の目はないし、端の席に座ってしまったから逃げ道もない。それなのになまじ逃げようとしたから、康熙が迫ってきたところで結果的に壁際に追いつめられてしまう。隣りの席にいた要がひょいと立ち上がって康熙に耳打ちをすると、
「とりゃ」
「わっ」
飛んできて優馬を押さえつけた。
「行けっ」
「十秒な」
「やだっつってんだろ!」
康熙は暴れる優馬に跨るや、両手ですばやく頬を挟んで自分の顔をぐっと近づけた。片手を振り上げたまま、優馬は固まる。
「十! 九!」
要が声を張り上げてカウントダウンを始め、すぐさまコーラスと手拍子も加わった。こうなるとぴくりとも動けない。動くと――ぶつかる。寸前でぎりぎり触れずにいる、康熙の唇に。
「……一、ゼロ!」
ぱっと康熙が退いて、要の手も離れて自由になる。無意識に止めていた息を荒く吐き出しながら、優馬は友人を見上げた。腰に手を当ててはいるが、睨んでいる、というほどではない。
「非協力的すぎるんだよ。俺が襲ったみたいになってんじゃん」
「ひでえやつだなー」
「かっわいそーに」
「手加減してやれよ」
「ちょっと! 先輩が言ったんじゃないっすか!」
飛んでくる野次に康熙が大袈裟な、しかし中身は真っ当な抗議をして、げらげら笑い声が上がる。
「何か言えよ。ふざけんなとか何とか」
要が囁いてきたのに一瞬目を剥いて、我に返って優馬は手の甲で口を拭った。
「……さいっあく」
ぼそりとこぼした声は要にしか届かなかったかもしれない。
「最悪だ」
普段程度の声量になったから、今度は聞こえただろう。
「ぶっちゅー行ったかんね。すげえなおまえ」
ひょいと立ち上がって康熙を振り返る要に、呆れたものか感心したものか。至近距離で見ていたくせに――要に遮られて、その向こうからは二人の顔は死角になっただろう、位置で。
半ば這うようにして優馬が席に戻る間、二人は周りと何か笑いながら話していたが、
「今何時?」
「うん?」
康熙が不意に問いかけて、要がスマートフォンを覗いてから突き出した。口で教えてくれよ、とぼやいてから、康熙は目を上げて主将を見た。
「すいません、俺らバスなんでもう帰らないと。終バスって早いんすよ」
「おう。やっば」
慌てて要が自分の荷物をつかみ、ついでに優馬の首根っこもつかんで、おまえもだろうよぼーっとすんな、と引っ張り上げる。事態が呑み込めず困惑している間に、二人はてきぱきと優馬を伴って外に出てしまった。
夜風に吹かれて頭が冷えたか、遅蒔きながら理解する。逃がされた、わけだ。
「最初当たった?」
「……いや。掠ったかもしれんけど」
「悪ぃな、咄嗟に距離感つかめなかったわ」
「おまえエンターテイナーねえ」
詫びる康熙に、要が肩を竦める。康熙はその場の「ノリ」に逆らわない、寧ろ積極的に盛り上げる性質だ。キスぐらい、本当にしかねなかった。
本当にするふりをして誤魔化すとは予想外のことで――実は普段から時たまそうして周りを欺いているのか、あのとき耳打ちした要の計略だったのか、詳細を追及する必要はないと思った。発案がどちらであったにせよ、実行したのは二人ともだ。
「まあ、あれよ。あの人らももうじき引退だから。あとちょっと辛抱しなさい」
要は軽い調子で言って、少しだけ間を置いた。
「辞めんなよ」
声を落として囁いた、その一言は深刻に――切実に響いた。
「……大袈裟だよ」
「え、俺は辞めるのもありだと思ったけどな」
康熙が被せてきたことに、優馬よりも要が目を剥く。
「なんでよ」
「我慢しろって方があれだろ。……変わんねえもん、あのノリは」
表向きは従ったと見せかけたのだから、ああした悪ふざけはこれからも続くだろう。この先もこれ以上のことは――明確な反抗はできないだろうという予想も、そこには含まれていただろうか。
「やだよ。なんで優馬の方が辞めんだよ」
「言っとくけど止められてねえのはおまえもだからな?」
優馬が笑ったので、二人は同時に見返った。
「二人ともサンキュ。辞めないよ、とりあえず」
「ほら見ろ」
「まあ、優馬がいいなら、俺もその方がいいんだけどな」
折しも駅前に着くところだった。康熙は実際にバスで帰るらしく、じゃあなと手を振って急ぎ足に停留所へ向かう。こちら二人は電車だが、方向は違うからここで解散だ。
「練習ちゃんと来いよ」
「行くよ」
まだ心配が拭えないらしい要に微笑んで、優馬は踵を返した。
罰ゲームを課した当人たちは何を感じて何を改めるわけでもないのだから、結局のところ、泣き寝入りではあるのだが。
<End>