弓の毛を張って、松(やに)を塗って。四本の弦を鳴らして、ペグをひねって微調整をして。いつも通りの作業、いつも通りの準備が、興奮に沸き立つ心を平静に近づけてくれる。といっても無論、それでも凪には程遠い。

 演奏会本番の緊張は心地よい。赤の他人と接するときのような緊張とは全く質が違う。

「おまえのスーツ姿って未だに違和感あるわ」

「リョウも大概だからな」

「俺会社でもスーツですけど。内勤のおまえと違って」

 間近にいるのもいつも通りの面々であるからして、口を開けばいつも通りの調子になるのだが。

「日下は昔から様になるんだよなー」

 矛先が不意にこちらへ向く。褒め言葉だろうからそれは構わないが、

「そろそろ自分のパートに行けよ」

 高校時代は三人とも第一バイオリンだったけれども、今回は人数の都合で、青葉と力は第二バイオリンだ。なおかつプルト――同じ一つの譜面台を共有するペアだから、今からアンコール曲が終わるまでくっついていようと問題ないわけだが、第一バイオリンの良大はそうもいかない。

 (もっと)もだと思ったのだろう、無視される形になった力も特に不満そうにはしなかったし、唇を(とが)らせた良大も大人しく離れていきかけた。

「フェルトの人来たよ!」

 愛がうきうきと飛んできたので、三歩目辺りで止まってしまったが。

(にい)()さん? だっけ?」

「そりゃ来るだろ。行きますって返事来てるんだから」

 それで用意した招待券二枚を、こんなに急でなければ姉が手渡しに行っただろうけれども、こんなに急だったので当日渡しということになった。だから二人は受付で名前を告げて受け取ったはずだ。

「受付見たら来てたから喋っちゃった」

「受付で?」

 いつの間にか愛の後ろにいた知果が眉を吊り上げる。偶然ちょうどよいタイミングで覗きに行ったとも考えにくいから、察するに何度も覗いたのだろう。愛は(こた)えていない様子で、トランペットに対する感動を直接伝えたと、四人ともが恐らく聞かずともわかっていたことを報告した。愛が一体、他に何を言うのか。

 実を言えば、行かれなくなる可能性はあるよと、姉にこっそり注意されていた。友人の母親は、あまり体が丈夫でないそうだからと。公募展の初日に来ていなかったことや、文化館で邂逅したときのことが思い出されて、無理はしないでほしいと姉に念押しを頼んではいたのだが。……来られたのなら、よかった。

「まあ、その話は終わった後でな」

 パン、と力が両手を打ち合わせた。本番はいよいよ、目の前だ。

 プログラムに載る三曲と、アンコールの小品と、最後には高校の校歌を演奏するのが定番である。()き慣れている校歌が一番リラックスできるのは当然のことで、校歌が一番元気だよね、と姉に評されるのも納得だった。そもそもクラシック音楽は元気に弾くものばかりではないにせよ。

「シールのとこにいるって」

 裏に戻って真っ先に、青葉は姉からのメッセージを確認した。少し離れていた知果に良大が呼びかけて、すぐさま、というわけにはいかなかったものの、それぞれ楽器を片づけると、三人は連れ立ってロビーへ出た。団員が家族や友人と話していたり、客同士が喋っていたりして賑わっている。

 姉が「シールのとこ」と表現した一画に、姉と母と、姉の友人とその母親とを認めて、一瞬、青葉は引き返したくなった。友人と姉と母親が同じ場にいるのは、やはり、居心地がよろしくない。喋っているのはどうやら母親同士で、こちらをみつけて母をつついた姉も、思い成しか大人しいようだ。

 幸い、母も空気を読んで、軽く挨拶をしただけで姉(とも)(ども)退散してくれたが。

「あの、……この間はありがとうございます。……使ってます」

 作者と娘の間で視線を彷徨(さまよ)わせながら、青葉はまず述べた。黄緑のバイオリンを本物のバイオリンのケースに吊るしていることは、姉から伝わっているかもしれないが。

「うちの企画担当で――」

「ホルンの白鳥です」

「第一バイオリンの水上です」

 二人がさっさと引き取ってくれたので、ありがたく一歩下がる。

「こういう企画、俺らがやってるんですよ」

 良大が壁を指さす。オーケストラのステージの絵がポスターのように貼ってあり、今はその上一面に楽器のシールが(ひしめ)めいていた。プログラムに一枚ずつ楽器のシールを挟んでおいて、客の手でステージに貼ってもらってオーケストラを出現させよう、というのが今回の企画だったのだ。シールと一緒に挟んだ、企画意図を説明する二つ折りのカードも、(すみ)を音符が飾っているそれらしいものだった。よくみつけてくるものだ。

 もっと散らばるのではないかという予想もあったけれど、フルートはフルート、トランペットはトランペットできちんと固まっていた。オーケストラでもブラスバンドでも同じ楽器は同じ場所にあるのだから、この方が自然な結果だと思う。といっても正しい配置になっているわけではなくて、バイオリンとビオラとチェロとコントラバスは四方に散っているし、トランペットは中央を占めていて、一方ホルンは右下に――。

「ホルン逆だし」

 容赦ない指摘は無論、良大である。四つ並んだホルンは、大きく開いた朝顔を上へ向けていた。正しくは下を向いているべきなのだが、多分ありがちな間違いだし、この程度の余興では知果も別に気にしないだろう。

 と、母と娘が顔を見合わせた。予想が的中したときのように楽しげだった。

「最初に子供が貼ったのよね。このくらいのちっちゃい子」

 娘は片手を低く下げた。

「お母さんのもホルンだったから、どうしようかなって思ったんだけど」

 正解よりもその子供に合わせることにしたわけだ。そうして二つ並べば三人目も倣うだろうし、三つ並べば四人目も(なら)うだろう。

「フィンガーボールってことね」

「ありがとうございます」

 良大が頷くと同時に知果が微笑んで、青葉も少し、頬を緩めた。

「脱線してしまったんですけれど」

 そう続けて良大へやった知果のまなざしには、少々非難の色があったが。

「日下からお話ししたと思いますけれど、次回公演のときに、あのフェルトの楽器を飾らせていただけたらと」

「ええ」

「お願いできますか?」

「喜んで」

 照れた様子で口元を押さえる仕草は品がよかった。会場側の許可がいるから確定ではないと知果が断る一方、良大はロビーを見渡して、この辺になんのかなと独りごちている。机をどこに置けるか、見当をつけたのだろう。

 話が上手すぎるような、不思議な気分だ。自分の慣れ親しんだものと自分の心惹かれたものが、自分から働きかけたためでもなく、結びつくなど。

「次回っていうと、いつ頃になるのかしら」

「三月か九月?」

「未定ですけど、多分半年後か一年後に」

 二人の答えに、作者はにっこりとした。

「それまでにホルンを作っておかなくちゃ」

 姉の部屋のドアを開ければ、熊と(うさぎ)は探すまでもなくみつかった。その間には以前見た通り、フェルトのティーセットが鎮座している。

 別に忍び込んだのではない。ティーセットを見たいとさりげなさを装って言ってみたところ、見てきていいよと返事だけが来たのである。弟を自分のいない自室に入れることに対して抵抗はないらしい。おかげで余計な目と口に(わずら)わされることなく、青葉はとっくりと目当ての品々を眺めた。

 白いフェルトでできた、ティーポットとティーカップと、ソーサーとティースプーン。ティーポットは一つ、それ以外は二つずつあった。ポットとカップとソーサーに、ピンク色の同じ花模様がついていて、姉の心を射止めたのはこの縫い取りだったわけだ。ピンクと、確か青と、他に二種類、色違いがあると聞いているけれど、姉はピンクが一番可愛いと断定していた。

 ティーポットから順に、手に取ってみる。綿を詰めてあったバイオリンと違い、これは中に厚紙か何かが入っている。(ふた)は開かない。開くと聞いたような記憶がある一方、開かないのを見たような記憶もあって、どちらだったろうと首をひねっていたのだ。

 あの人が作った。

 今初めて見たわけではない。姉がこれを貰ってきたのはしばらく前のことだ。有頂天になって姉が見せつけてきたし、展示期間中に行きそびれて、言うなれば逃した後だったから、青葉自身も嬉しい思いでその自慢を受けた。けれども姉のようには、また楽器のようには、強烈に惹きつけられることはなかったのだ。いや、今だって、楽器のようなインパクトは流石(さすが)に覚えないけれども。

 あの人が作ったのだ、と思うと――魅力がぐんと、増して見える。

 わかりやすく不公平で、我ながら笑ってしまいそうだ。楽器に比べれば食器はありふれた題材であろうし、四十台で迫ってきたような極端さもないのに。

 以前は考えなかったことにも意識が行く。ポットの注ぎ口やカップの取っ手を、本体に縫いつけるのは難しいものだろうか。ポットとカップの、カップとソーサーの、バランスを考慮しながら大きさを決めるのに、どのくらい迷うものだろうか。芯になる厚紙を設計したり組み立てたりするのは、フェルトを縫うのとは勝手が違いそうだが、その段階で()()()るようなことはないのだろうか。それとも、手芸を趣味にしているような、そうした作業に()()んでいる身には、言い立てるほどの技術でもないのだろうか。

 自分では作る側に回ってこなかったから、推し(はか)れないことばかりだし、素人丸出しの感想しか持てない。面倒なことを甘く見ているかもしれないし、容易なことを考えすぎているかもしれない。残念なような、寂しいような、悔しいような――同じ立場で共感したかった、同じ視点で理解したかったと、惜しまれるような。

 とはいえ、これぐらい大した技術でもアイディアでもない、と(しゃ)に構えて流してしまうよりは、大袈裟でも感動できる方がずっとよい、だろう。

「蓋開かないんだね」

「開くのはキャニスターやね」

 精通しているのだぞとひけらかすような応答だった。

 ということは、開くと聞いた記憶はキャニスターの話を聞いたときのものだったのだろう。そのときには今ほど強い関心を抱いてはいなかったから、記憶がいい加減なのだ。

「ティーポットと(きゅう)()は開かなかったはずよ」

「急須もあんのか」

 段々驚かなくなってきた。バイオリンとフルートでは大分作りが違うけれども、ティーポットと急須なら似通っているだろう。急須があるということは湯呑みもあるのだろう、ティーポットがティーカップとセットになっていることから推して。

「急須は本物見たことないんだけどね。写真だけ」

「探さなくていいから」

 スマートフォンを触り始めるから急いで止めた。探し出すのを待ってまで是非拝みたいというほど、姉の一言で興味をそそられてはいない。現物が手の届くところにあると知っていたティーセットとは違う。

 そこまで盲目にはなってないな、と自分を評価して、少しほっとした。盲目になってしまった方が、ある面では楽になるのだろうけれども。

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