毎週、迷う。結論は、けれども、毎回同じだ。

 紐の間をくぐらせて、黄緑のバイオリンをケースから外す。OBオーケストラでは好評だった、想像もしなかった結果を連れてきた、贈り物。

 市民オーケストラでは――どうなるだろう。

 楽器の、クラシック音楽の、好きな人間が集まっている。その点はOBオーケストラと変わらない。良大や力ほどに親しい相手、あるいは愛のようにはしゃぎそうな団員は、流石(さすが)にいないにしても。ああして盛り上がることはなくとも、笑われたり、陰口を叩かれたりということもないだろうとは思う。思う、けれども。

 出かける前に外して、帰ってきたらつけ直す。どうしても、その二手間をかけずにはいられない。姉は気づいていないのかもしれないし、気づいていたとしても何も言わない。

 ……本番を終えたところだから、明日からOBオーケストラの練習はないのだった。これからしばらく、つけ直す機会はないことになる。

 机の引き出しを開けて、余裕のある段を探した。狭いところに無理矢理押し込んで傷めたくはない。結局、三段目の中身を少し並べ替えて、十分な空間を確保してからそこに納めた。

 胸の(うず)きを黙殺して、本物のバイオリンを背負う。もう、出よう。

 オーケストラの練習がなくとも遊ぶときは遊ぶし、三人で一日過ごしていればオーケストラの話題はどこかで出る。映画を目的に集まったのだったが、先に券を確保してから時間を潰していた喫茶店で、フェルトのオーケストラの話になったのも自然なことだった。

「え、窓口俺がやるの?」

「え、普通にそのつもりだったけど。っていうか、日下から連絡しますって白鳥が言ったじゃん」

「……そうだっけ」

「だから連絡先聞いてないよ、俺ら」

 次回公演は半年後、三月になった。あちこちの卒業公演が重なるだろう時期にぶつけなくてもと思わないではないが、一年後には何人が参加できなくなっているかわからない、という懸念があったのかもしれない。会場は押さえたし、ロビーに机を置いて作品展示に使うことの許可も取ったそうで、計画は順調に実現へ向かっていた。

 青葉個人は十一月と五月に市民オーケストラの定期公演も入っているから、息つく暇がなくなったような感もあった。忙しいとぼやいてみせるのは軽口で、趣味なのだから本音としては歓迎だ。

「本番前に一回並べてサイズ感見ときたいけど、並べる場所があるかって話よね。リハの段階でやっても遅いし」

「なんか本格的だな」

「日下さあ、家で一番でかいテーブルってどんぐらい」

「俺の家でやろうとするな」

 一人だけチーズケーキを頼んでいる良大が、残り少なくなってきたそれをちまちまと分割しては口に運ぶ。惜しがってないでいい加減食べきれよ、とおもしろがりながら眺めていたのだったが。

「あと、編成に合わせるかどうかよな」

「え?」

「ピアノとかハープを置くかどうかよ」

 思いがけない発言がその口から出てきて、青葉は絶句した。

 置くかどうか――置くかどうか?

「演奏会目線だと、出てこない楽器置く意味ないでしょ」

「いや、そんなこと言ったら、ピアノ二台置くチャンスなんてそうそう来ないぜ」

 力が冷静に指摘する。

「サイズの問題でもあんだよ、さっきの。机に全部載るのかっていう」

「まあ、ぎちぎちにはしたくないけど」

「借りるなら全部だよ」

 (さえぎ)って、青葉はきっぱりと言った。

「俺は、ピアノはいりませんとは言いたくない」

 ピアノも、ハープも。トライアングルも、タンバリンも、鈴も。

 こちらの都合で、省くだなんて。

「うん、俺もそっちメインで考えたらそうよ」

 気負いなく言ってから、良大は口元を(ゆが)めた。

「怒んなよ」

「怒ってるわけじゃ」

 言いかけて、口を閉じる。説得力はないだろう。表情があまり動かないといっても、友人たちの前では違ってくるようだから。

「全部置く気でやろうぜ。全部並んでるとこ見てえもん、俺」

 異論を認めない口調で力が言い切り、時間だぞとついでのように付け加えた。映画館に移動するには実際のところ少しばかり早かったけれども、二人は黙ったまま席を立った。

 OBオーケストラの練習が、今日からまた、始まる。軽く見渡して良大の姿がみつからなかったことに、いささか、ほっとした。顔を合わせづらいというほどではないが、二人きりになるのは、ちょっと、避けたい。

 力の方はもう来ていたから、そちらに歩み寄る。愛が同じトランペットの団員と元気よく喋っているのが、聞こうとしなくとも聞こえてきた。

「あれ? どした?」

 いきなりの質問に面食らう。どうした、とは、何がだ。

「ないじゃん」

 バイオリンケースを指されて、ぎくりとする。そうだ、フェルトのバイオリンを戻し忘れていた。外したりつけ直したりのルーチンが途切れて、つけ直すタイミングを逃していたのだ。

「……ああ、ちょっと外してつけ直すの忘れてた」

「洗った?」

「なんでだよ」

「いや、外したって言うから」

 外す理由がそれぐらいしか思いつかなかったらしい。

 ケースを下ろし、腰を下ろす。……力なら、()いて追及してはこないだろう。

「市民オケ行くときはつけてないんだ」

「なんで?」

「成人男性が持ってんの、微妙じゃない?」

 ぼそぼそと、青葉は口にした。

「いや、言われたことはないよ。市民オケにはそもそも持っていってないんだし。ここは――高校の延長みたいなもんだし」

 この場にいると高校時代に戻ったようで、今現在は成人であるという意識が希薄になる気がする。もっと年長の、管弦楽部に同時に在籍していたことのないような先輩たちはそんなこともないだろうが、この学年はまだ若い。

 ここが特別なのだ。別格なのだ。一般的には――普通は――こうは、行くまいと。

「恥ずかしいってこと?」

「恥ずかしいっていうんじゃなくて」

 違うのだ。断じて。人目が(はばか)られるのは、そのためではなくて。

「感動したし。すごい、見せたいって思ったし、人に。……でも、俺が持ち歩く、ってなると」

 そこで一度途切れたのは、恥ずかしいわけではないという主張の補強にはなりそうになかったためである。……どう、説明すればよいのだろう。

「変な風に思われてる『だろうな』っていうんじゃないんだよ。ただ、思われて『たら』やだなっていうか……」

 馬鹿にされているに違いないと決めてかかるのではない。そういう見方が当然であるとも、当然でない見方をする人間が大多数だとも、思っていない。だが、ありうるとは思う――知っている――経験しているから――。

「まあ、好きなものを(けな)されるのは、どっちでもいいものを貶されるよりきついしな」

 助け舟のように、力が自分の理解を口にする。

「リョウがさ。いっつもパスタ食うじゃん。ティラミスとかパフェとかつけて」

「サンデーな」

「どっちでもいいだろそこは」

 返ってきた呆れ声に内心微笑む。

「女子かよって最初の方で俺が言ったじゃんか」

「言った?」

「言ったのよ。でも全っ然気にしてねえじゃん?」

 力と青葉がハンバーグなりチキンなり肉を()き込んでいる横で、良大はなるほどパスタを食べているのが常だ。やっぱりパスタが好きだからと言い訳をしてみたり、たまには肉にしようかと寄せてみたりすることもない。パスタを頼んで、大抵はデザートをつけて、時たまデザートの代わりにサラダをつけて、淡々と平らげている。

「けどさ、映画のときは一人じゃやだとか散々言ってたじゃんか」

「それは人目の量が違うからじゃないの」

「まあまあそうかもしれないけど、思い入れの差もあるんじゃないかな。ファミレスにもパスタにも別に思い入れはねえだろ、多分」

「……ああ、そっか。映画は」

 好きな女優が出演する映画だったのだ。ほんの少しのケチもつけたくなかった、という心理はありうる気がする。後々思い返したときに、一点の曇りもあってほしくないと。

「――そっか」

 同じことを呟いたのは、これが自分の話だということを思い出したためだった。

 自分も、つまり、そういうことなのかもしれない。馬鹿にされたという事実を、万が一にも帯びさせたくないのだ。あんなに、すばらしいのに――もしも、自分が持ち歩いたばかりに……。

 ……ああ、そうだ。恥ずかしい、では主体が違う。もしも馬鹿にされたらと恐れているのは、自分ではなく、作品の方だ。

 自分を通したせいで、否定されたら。自分ゆえに(おとし)められてしまったら。誰も彼もが楽器に関心を持つわけではない、手芸に関心を持つわけではない、即ち自分と同じだけの感動を抱くわけではない、そこまでは当然のことで、残念とすら感じないけれど。自分が原因で、不当に低められるようなことが、あったら。

 それは、あまりに、やりきれないことで。

「俺も、姉ちゃんのことでどうこう言われるのは別にいいしな」

「……いや、この流れだと姉ちゃんには大して思い入れがないってことになるんだけど」

「姉ちゃんは便利なんであって思い入れがあるわけじゃないから」

「ひでえ」

 力は笑った。冗談を言う余裕が出てきた友人に安心したようでもあった。

「おまえ自腹切る気ある?」

「いやもうちょっとヒントくれよ」

 突然そこから始めた良大に目を円くする間もなく、横から力がつっこみを入れた。特に先日のことを気にしてはいない様子で、青葉は内心、苦笑いする。

「あれを一回並べときたいって言ったじゃん、本番前に。やるとしてどこでやんのって話なんだけど」

「まあ、ここ来てもらうわけにもいかねえわな」

 中学校である。自分たちの母校ですら、ない。

「で、思ったんだけど、レンタルスペース借りるってのはどう」

「レンタルスペース」

「おまえこういうことになると本気だなあ」

「そりゃ本気よ。じゃなきゃ、ツレの姉ちゃんの友達の母さんとか伝言ゲームみたいなとこに頼みません」

 そこまでやるか、という呆れとも感心ともつかぬ声を出した力に、良大は単調なほど当たり前に返した。

 そう、企画に取り組むときの良大は常に全力で、企画としての完成度と成功を追求している。主眼は企画であり演奏会であって、決してフェルト作品の方ではないにせよ。

 ともあれ、伝言ゲームという(たと)えに笑ってしまったから、青葉の負けである。

「けど、オケの金使っていいもんかなと思って」

「それで自腹ね。幾らぐらい?」

「時間千円行くか行かないか。あと、場所によっちゃ交通費かかるね。おまえの姉ちゃんの友達ってどこ住んでんの」

「新名さんな。訊いとく」

 なるべくあちらの家から近いところがよい。

「最悪、ガチで日下の家」

「ええぇ」

 一瞬ことさら苦い顔を作ってみせようとして、失敗したのでもうそのまま、青葉は笑った。来たときに感じていたしこりはすっかり消えていた。

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