「ヤア、成り上がり」

 ぎょっとしたのは人目があるためで、ほっとしたのは客がいなかったためだ。薬屋に客が来ない日はなかったが、朝から晩まで大入りということもなく、人足の途絶える時間もある。内輪の人間しかいなくなった隙に、セディカは直近の数人に販売した薬について教わっているところだった。

 ずかずかと入ってきた少年も、タイミングを見計らっていたのかもしれない。

「ちょっと顔貸してくんない?」

「キイ。やめなさい」

「スチェ姉様に用があるんじゃないよ」

 再従姉(はとこ)のスチェがたしなめたが、キイ少年はどこ吹く風である。

「食い()()減るとこだったらしいじゃん? (せっ)(かく)だったのにねえ」

「キイトラト」

 スチェが怖い顔をする。セディカは慌てて手を挙げた。

「あ、あの、少しなら」

 キイは鼻で笑って得意気にスチェを見やると、くるりと背を向けて店の外へ出た。

「ごめんなさい、ちょっと行ってきます」

「……無理にあの子に付き合わなくてもいいのよ」

 心配されていることに申し訳なく思いつつ、少女は少年を追いかけた。

 呼ばれたからとすぐ出ていかれるのも、甘やかされた境遇だと思う。おまえは今どういう立場なんだ、とトシュにも不思議がられた。働いているにせよ学んでいるにせよ、いつでも中座して構わないということはなかなかあるまい。

 実のところ、セディカをどうしたものかは、本人も周りもいささか困っていた。働くには少し早いが、少しだ。幼い子供のように遊んでいるわけにもいかない。生まれ育った町と家は、この里と家とは大分違っていたので――これまで学んできたことを、横滑りには生かせない。

 これは幸いではあるのだが、この国は、この里は、それともこの家は、十三歳の女性ならかくあるべしと無理にでも型に()める習慣を持たなかった。つまり、セディカは自らの道を自ら選ぶことができ、言い換えれば自ら選ばなければならないわけなのである。縛られなくてもよいセディカは、だが、親代わりになってくれた従伯父(いとこおじ)夫妻に近くありたかったから、薬屋で働ける知識と技術を身につけたかった――志望と適性は別問題だし、いずれにしても三ヶ月やそこらで身になるものではないが。

 キイの方は、用事のない時間なのだろうか。手ぶらだから、何かの帰りがけでも行きがけでもないようだけれど。

「妖怪に食われかけたって?」

「うん」

「うんじゃねえよ」

 キイは顔を(しか)めた。素に戻るのが早いと、セディカは内心でだけ呟いた。

「それさ、君を邪魔に思ってるやつがけしかけたってことはない?」

「邪魔に?」

「スチェ姉様とかうちの母親とか?」

 さりげなさを装った、というところだろう。

 決してさりげなくはなかったものの、心中を汲んで触れないでおく。

「妖怪をけしかける伝手(つて)なんてあるの?」

「人間に化けて、人間に紛れて暮らしてる妖怪もいるっていうじゃない」

「妖怪の知り合いがいたって、妖怪から見てわたしが健康によさそうだなんてわからないと思うけど」

「健康によさそう?」

 少年は目をぱちくりさせた。

美味(うま)そうとかじゃないの、そこは」

「健康によさそうだったんだって」

「はー」

 感心したような声を出す頃には、ことさら意地悪そうにしていた顔つきもすっかり平常に戻っている。釣り目だからか、ちょっと意地悪そうにすると――とても、意地悪そうに見えるのだけれど。

 二人は南への道、河の神の(やしろ)へ向かう道、トシュと共に歩いた記憶も新しい道を辿(たど)っていた。そもそも、人目を避けるならあの社、という発想をセディカに吹き込んだのはキイである。最初は警戒したものだったが、今ではすっかり、()()みの場所だ。

 この国――〈(きん)()が羽を休める国〉では珍しくないのか、〈金烏が羽を休める国〉でも珍しいのかはよく知らないが、〈高寄と高義と高臥の里〉は北側の大部分が町らしく発展し、南側の一部に古くからの村里らしさを残していて、趣の異なる二つの地区が合体したような構造になっている。薬屋は「北の南」と言われている辺りにあって、これは「南」にある薬草園からあまり遠くならないようにと配慮した位置であるらしい。

 畑の多い方へ行けば畑仕事をしている者が多く目につくけれど、社の方へ行くと(ひと)()がなくなる。その社に到着すると、キイは無遠慮に階段を上がって、途中の段に座った。腰を下ろすのには抵抗があるセディカは、階段の下に立ったまま、背中の後ろに手を組んで見上げる。

「妖怪、退治されたってホント?」

「退治っていうことじゃないけど。……死んじゃった」

「何へこんでんの」

 (もっと)もな指摘を曖昧な微笑で流す。

「チオハ家とは何の関係もない人よ。本当は人間を食べるような妖怪じゃなかったみたいだし。けしかけるんだったら、普段から食べたがってるような妖怪にするんじゃない?」

「ふーん、そっかあ」

 どこか不満げな台詞(せりふ)と裏腹に、キイは(すが)(すが)しい表情になった。今度は自然と、セディカの口元は(ほころ)んだ。

「心配してくれたんでしょ。ありがと」

「べっつに」

 つんとしているようだが、明るい。というよりも、これまでがぎこちなかったのだ。恐れを押し隠しているように。

 キイは一歳も離れていない再従弟(はとこ)であった。従伯父から見れば唯一の甥だ。キイの母親が、従伯父の姉に当たるので。

 薬屋を営むのみならず、薬草園や畑もかなりの面積を所有しているチオハ家は、庶民とはいえ、当主や後継ぎを意識するに足るほど裕福だった。薬屋という家業に誇りを持っていて、薬屋を支える薬草園も、薬の開発や改良のための研究も大切にしている。その一方で、一族全体を養っている畑の管理も軽んじてはいない――薬屋が商売上は赤字になろうと、研究結果が経済的な見返りを生まなかろうと、広大な畑が生活を保証しているわけである。

 一族の中の誰がどの役割を担うかという点は、流動的と言おうか、融通が()くものらしい。男系男子や嫡子嫡孫が優先されるにはされるようだけれども、従伯父のように子供がいない場合には、血縁の近さよりも資質や適性や関心を考慮して後継者を選定するのだ。姉の息子であるキイも、従姉(いとこ)の娘であるスチェも、何なら従妹(いとこ)の娘であるセディカも、女系であろうと女子であろうと対等に候補になると聞く。

 そういったことをセディカに教えたのは主にキイだった。従伯父夫妻もスチェも、顔を合わせる機会のある親戚も、何も知らないセディカに折に触れてあれこれと説明してくれるけれど、キイは人一倍、ずけずけと喋りたがるのである。喋れる相手ができたことが嬉しいらしい。

 チオハ家の当主と薬屋の店主とは、厳密には別物なのだとか。ほぼ同一視されているのは、それだけ薬屋を重視していることの表れだとか。薬屋に劣らず薬草園の管理も、言うなれば重職なのだとか。畑の中にも幾つか重要なものがあって、そこを任されるのも名誉なことなのだとか。小馬鹿にしたように話し始めて話し終えるのだけれど、話している途中は段々と熱が入っていくのが常で、実のところはキイこそが誇らしがっているのではないかと思う。

 それなのに、とセディカは眉を(ひそ)めた。

「でも、あんな言い方しなくてもいいのに」

「いつも言ってんじゃない。僕ぁね、君んとこの店員に嫌われておきたいのよ」

「うん、それはわかってるけど。しんどくない?」

「母様のご機嫌を損ねる方がしんどいのよー」

 キイはけらけらと笑った。

 店主の従姪(いとこめい)にすぎないスチェよりも、甥であるキイの方が後継ぎに相応(ふさわ)しい、とその母親は主張して譲らないらしいのだ。チオハ家の人間の前でも薬屋の人間の前でも、キイが積極的に反感を買うような振る舞いをするのは、そんな母親に同調できないゆえの遠回しな反抗なのだった。母親の主張に正当性を認めたとしても、当のキイがあの調子では、後継ぎに据えたくも店主に迎えたくもならないだろう。

 こうしたやり方が最善であるとも次善であるとも思われないけれど。正直なところ、セディカは一度顔を合わせただけでキイの母親がすっかり苦手になっていたから、その母親と正面からぶつかれないキイに共感と同情がされてならないのである。

 ……セディカが襲われたと聞いたとき。自分の母親の差し金ではあるまいなと、悪ふざけでなく本気で、キイは恐れたのだろう。従伯父の養女格であろうと、仮令(たとえ)正式に養女になろうと、だからとてセディカがスチェを差し置いて後継ぎに躍り出るわけではなく、成り上がりと呼ぶのは揶揄にしても大袈裟だけれど。

 と、はたとキイは何かに気づいた顔をした。

「君が余計な食い扶持だとか、本当に思ってるわけじゃないかんね」

「……うん。わかってるけど」

 先ほどと同じようなことをセディカは言った。

「わたしは……わたしだけはキイの本当の気持ちをわかってるんだって、優越感に浸れるからいいけど。……他の人よりは、わたしに言ってくれた方がいいけど。……それでキイが嫌われるのは、やっぱり、辛いわ」

 一瞬、キイは目を(みは)った。それから口の端を片方だけ吊り上げる。

「親友みたいじゃん。本当のことをわかってくれる理解者」

「その親友みたいな人のことを、あんまり関わらない方がいいよって言われる身にもなってよ」

「……そうね」

 からかうような笑みが引いて、目を落とした顔つきは思案げだった。

 少し(ちゅう)(ちょ)してから、思い切って訊いてみる。

「キイのお母様は、どうしてそんなに(こだわ)ってるの?」

「僕がノヴァ家を継げなくなったからじゃないかな。僕っていうか父様がね」

 キイトラト゠ノヴァは言った。

「お父様の家?」

「そ、本家。ご当主にもご当主の弟にも、五十を過ぎても子供がいなくってね。そうなると次にお鉢が回ってくるのは父様だったんだよ。でも結局、お(めかけ)さんに来てもらって、今じゃ八歳と七歳の女の子と男の子がいるの。で、正式に跡取りに決まったのが三年前」

 そこまでするほどの家だったのか、と少々驚く。貴族ならともかく、ノヴァ家もチオハ家同様、庶民ではあるはずだ。

「それから急に、俺がチオハ家を継ぐべきだって言い出したんだよね、母様。薬の勉強をしなさいっていうのも――自分は全然してないくせにさあ」

「お父様は?」

「父様は元々乗り気じゃなかったんだよ、管理も大変だし責任も大きいしって。母様だけ怒ってんの」

 やれやれとばかり肩を(すく)める。

「僕だって、五十過ぎてから家のためにお妾さん貰ったり、五歳の子を捕まえて、おまえは将来従弟(いとこ)と結婚してこの家を継ぐんだよ、なんて言わなきゃいけないような立場にはなりたくないし。イッシャもカンも、……あ、イッシャとカンっていうんだけどね。二人とも可愛いのよ。僕、(なつ)かれちゃってるもんだからメロメロなの」

 わざとらしく両手で頬を挟んでみせてから、真面目な顔になった。

「あの子たちを追い落とすぐらいなら、スチェ姉様や君の方がマシかもしんない」

「……それじゃあやっぱり、嫌われてちゃ駄目じゃないの」

 スチェを追い落としてほしいわけではないが、セディカはそう呟いた。困ったねえと応じたキイはまた軽い調子に戻っていて、本当のところどう思っているのかは、今一つつかみにくかった。

 ぎゃーっと子供の泣き声が聞こえて、セディカは一瞬立ち止まってから足を速めた。予定になかった角を曲がると、地べたで泣き(わめ)いている幼い男の子と、もう少しだけ大きい女の子を二人連れて男の子の横にかがんでいる母親と、片膝をついて男の子の足を覗き込んでいる青年とが目に入る。

「あ」

 全員に見覚えがあったから、誰の名前を口にしたものか迷う。女の子の片方、弟よりも周囲に興味があるらしくきょろきょろしていた次女が先に気づいて、がっきのおねえちゃん、と声を上げた。母親と、身を固くしている長女とがこちらを向いたので、残りの距離を歩み寄りながら、母親の方と視線を合わせる。

「どうされたんですか?」

「おう。転んだだけだよ。ま、派手に()()いたな」

 答えながら立ち上がったのはトシュである。

「ちょうどいい、俺の身元を証し立てておいてくれ。水と薬を取ってくる」

「あ、はい」

 よっと声を立てて、トシュは大きくとんぼ返りをした。着地した足元には雲が起こっていて、トシュを乗せて浮き上がるや、流れ星のように光る尾を引いて飛び去った。

 かけ声に引かれてか、男の子もそれを見たらしい。涙で頬を濡らしたまま、(あっ)()に取られてトシュの消えた空をみつめている。母親も姉たちも同じことで、特に次女は興奮してセディカの袖を引いた。

「そらとんでる!」

「あのお兄ちゃん、仙術使いなの。仙人みたいな人」

「おじいちゃんじゃないのに?」

「うん、だからまだ仙人じゃないの」

 セディカは適当なことを言って、再び母親を見た。

「お世話になった人なんです。……故郷からここまで、連れてきてくれて」

 故郷から、と言ってしまうと嘘にはなるのだけれども、山奥に置き去りにされた事情を聞かされても相手が困るだろう。尤も、母親を安心させたのは、セディカの説明それ自体よりも、トシュへの深い信頼が感じ取れたことであったろうが。

 トシュはさほど時間をかけずに、水を(たた)えた桶を片手に戻ってきた。手当てにかかると男の子はまたも泣き叫んだが、「まず十秒我慢しろ」「次は五秒」「今度は十五秒、いや十二秒でいい」と何だか(ずる)い気のする手口で「我慢」の時間を引き延ばしながら、悠々と膝小僧を洗い、薬を塗り、布を巻きつけてぐいと縛る。男の子は鼻を(すす)りながらも大人しくなり、ありがとうございますと母親は頭を下げた――が、ほっとしたのか今になって長女がしくしく泣き始めたり、顔を輝かせて次女がトシュにまとわりついたりしたので、子供たちを(なだ)(すか)すのに、周りはまたしばらく骨を折った。

 ようやく親子と別れて自分の帰途に就いたセディカの横に、付き添いのつもりか単に同じ方向へ向かうのか、トシュも並んだ。桶はいつの間にか消えていた。

「『楽器のお姉ちゃん』ってのは何だ?」

「破魔三味を聞かせてあげたことがあるのよ」

 トシュとジョイドの前でも()いたことのある弦楽器である。それまでの呼び名は「新しいお薬のお姉ちゃん」だった。初代「お薬のお姉ちゃん」はスチェであるらしい。

 それから少し黙ったのは、言い触らすようなことではないがと躊躇したためだった。

「あの……あの子たちね、お父様が亡くなって、お母様は体が弱くてね。わたし、時々、薬を届けに行くんだけど」

 そうでなくとも三人もいる子供を見るのは大変だろうに、一人きりで、病身なのだ。

 立ち位置のはっきりしないセディカが、しかしこればかりは明確に任されているのが、何人かの特定の客に薬を届けることだった。今も正に、その帰りである。薬屋まで足を運ぶのに難儀するのだろう病人や老人で、頻繁に、定期的に、あるいは慢性的に、同じ薬を必要としている客が多い。要するに他人と馴染む機会を作ってくれているらしかった。親戚に用事があるときも、よく伝令を頼まれるから。

 セディカは届けるだけで、代金は受け取らない。従伯父や従伯母(いとこおば)やスチェが、月に一度だったり半年に一度だったりと、時々まとめて回収している。先ほどの姉弟の母親のような事情がある場合には、正規の値段よりも安くしている、時にはただ同然のこともあると暴露したのは例によってキイだった。キイの母親はこの慈善を嫌っているそうで、もしキイが薬屋を継ぐようなことになれば、この習慣を廃止させるだろう――だからやっぱし継げないねえ、とけろりとした顔で話していたキイの胸中をどう見たものか。

 キイのことへと流れかけた思考を引き戻して、セディカはトシュを見上げた。

「ここにいる間に、何か……、手を貸してあげられることがあったら」

「そいつは力になってやりたいが。元々体が弱いってのは、根本的な解決が難しいな」

 眉を寄せるのも尤もだろう。仙人を目指すといいぞっつう問題でもねえしな、と言ったのは冗談かもしれないが、半ばは本気かもしれない。不老長寿、不老不死の仙人仙女が、体調不良で寝込んだなどという話は聞かない。

「まあ、覚えておくわ。まだしばらく、ここにいるしな」

 頷きながら、セディカは少々ほっとした。便利屋じゃねえんだぞと気を悪くする青年ではないが――気を悪くさせたら、申し訳ないので。

 トシュとて万能ではない。普通の人間には届かないような方法を知っているかもしれない、とはどうしても期待してしまうけれど――結果的にトシュが何もできなかったからとて、失望を覚えるような勝手をしなければ、多分――よい、のだろう。

 そうしたセディカの内心を、もしトシュが知れば苦笑しただろう。マオを生き延びさせることのなかった〈慈愛天女〉に対して、トシュ自身が同じようなことを思っているのだから。

「……ねえ、トシュ。飢えた旅人と出会った(うさぎ)の話って知ってる?」

 遠慮がちに、セディカは口にした。

「兎は旅人のために食べ物を探したんだけど、何もみつけられなくて……それで、代わりに(たきぎ)を集めて、火を(おこ)してくださいって旅人に頼んだの。そうして、わたしをお食べなさいって言って、その火の中に飛び込んだんですって」

 締め(くく)りにはバリエーションがある。その様子を神が見ていたとか、旅人の正体が神であったとか。その神によって天に召し上げられたとか、月に召し上げられたとか、月に肖像を描かれたとか。

「月の神話だな。美談には違いねえが」

 当然のように知っていたらしいトシュは、指先で頭を()きながら一、二秒考え込んだ。

「困ってるやつは助けるべきだ。自分が多少、損をしてもな。全員がそうすりゃ、全員助かる」

 客に無償で薬を提供した薬屋が、親戚から畑の収穫を分け与えられるように。客のために薬屋が身を切っても、薬屋のためには親戚が身を切るのなら、客を助けたために薬屋が潰れるようなことにはならない。

「けどな。死んだらそれっきりだ」

「……うん」

「何事にも限度ってもんがあらアな。あの世での道行きや来世には影響するかもしれねえが、来世はもう別の人生だ。誰も埋め合わせてやれねえことを、そう簡単にやるもんじゃないし、そうするべきだったんだろうかなんて考えるもんでもない」

「……そこまで言ってないじゃない」

「思ってないならいいぞ」

 見透かしたように言われて目を()らす。こんな話をして、マオのことを思い浮かべていないはずがあるまい。

 畑を任されている親戚が薬屋を養えるのは、それを見越して大きな畑を抱え込んでいるからだ。耕作を生業とする他の家より、特段に大きい畑。薬屋を存続させるために、薬屋以外のチオハ家の人々が飢えるようでは困る。

 そもそも薬屋だって、親戚の助けを待つまでもなく、十分に恵まれているのだ。大きな店に、大きな家。そうできるから助けているのであって、そうすべきだから助けているのではない――。

 (うつむ)きかけた顔を努めて上げて、セディカは遠くを見るようにした。

「でも……自分が犠牲になるだけでいいことなんて、本当はめったにないのよね」

 マオは結局、セディカを食べたとしても治らなかったという。セディカが何らかの形で死んでのけたところで、あの三姉弟の母親が丈夫な体を得られるわけではないし、キイの母親が改心するわけではない。セディカの死に――命に――そういう効果は、ない。

「わたしは誰に何をしてあげられるのかしら」

「焦らんでいい。大事なのは出番が来たときに気づけるかどうかさ。それだけ気にしてるんなら、見落とさねえと思うぜ」

 ありがとう、と応じた後で、心持ち、セディカは口元を(ゆが)めた。丸め込まれたような気も、何となく、したので。

「すげえ今さらなことを訊いてもいいか?」

 ふと、トシュは思い出したように言った。

「おまえが俺を呼んだってことでいいのか? マオに襲われたとき」

「あ……うん」

「何をやった?」

 何を訊かれたのか、(とっ)()にはわからなかった。

「……え、あの……ジョイドが教えてくれた呪文を」

 教わっていたのだ。別れる前に。

「何かあったら唱えなって……遠くに行ってなければトシュに届くっていう、あの」

「聞いてねえぞおい」

 ジョイドの相棒は顔を顰めた。確かに、トシュのいないところで聞いたが。

「トシュに内緒にしてたの……?」

「そりゃまあ、いつ呼び出しがあるかわからんと思いながら過ごすのも(うっ)(とう)しかったかもしれんが。気の遣い方がずれてんだろ」

 言っとけよ、と額に手をやったのは無意識だったのかもしれない。それで、セディカも思い出したことがあった。

「わたしも訊いていい? ここ、……光ってた?」

 真似るように、自分の額を押さえる。倉庫の入り口に現れたトシュの額には、何かの紋を(かたど)るような、光の筋が浮かび上がっていたのだ。

 今は黄色いバンダナが巻いてあるから、その下にあの紋が隠れていたとしてもわからない。少なくとも布を貫くほどの光を帯びてはいないことになる。黄色が時たま青になったり違う色になったりはするけれども、これが普段の装いだった。あのときはバンダナがないなと気に留める余裕もなかったが。

「……光ってたのか」

「あ、そうか」

 本人には見えないか。

「あれは……何?」

「〈慈愛天女〉の……何だろうな、帰依の……いや、帰依した覚えはねえんだよな……まあ、加護の印ってとこだ。〈慈愛天女〉に代わって〈慈愛天女〉らしいことをしてんだから〈慈愛天女〉は力を貸しやがれっつう主張よ」

 〈慈愛天女〉とはトシュの口からよく聞く名前であった。セディカは〈慈しみの君〉という名前の方に馴染んでいるけれども。慈しみの、慈愛の、慈悲の神として名高い。

 この女神をトシュが強く意識していることは知っている。山でセディカを助けたときにも、〈慈愛天女〉の加護を期待している立場としては放っておくわけにいかないのだ、というような言い方をしていた。その身にその印を宿しているとしても、何と言おうか、他のどの神よりも似つかわしくはある――が。

 セディカはつい、見えない額に視線を注いだ。

「……別に、これを取ったら焼き印が出てくるとかいうことじゃねえぞ」

 トシュはバンダナを外してみせた。その通りで、焼き印も入れ墨も何もない。

「呪文の中身はジョーに聞いとくが、大方〈慈愛天女〉に呼びかけて俺を派遣させるようなもんなんだろ。俺ぁ何かにつけて〈慈愛天女〉を当てにしてるからな、そうやって呼ばれたら断れねえだろうよ」

「そうすると……そうなるの?」

「まあよくわからんが」

 額に印が光る理由など他に思いつかない、と言われればそんな気はする。

「〈慈愛天女〉の命令だから助けてやったっつうわけでもねえけどな。知った顔が妖怪に襲われたってんなら、一肌脱がねえわけにはいかんだろ」

 悪いやつをぶん殴って片づくなら簡単だしな、と歯を見せたのは、先ほどの姉弟の母親を念頭に置いてのことだろう。簡単じゃないわよと返しながら、言わんとするところはわかると思った。元凶を除くだけで済むようなことなら、困難であっても――単純だ。

「そういえば、そっちのバンダナもどうした」

 これは額からの連想だろう。目をぱちぱちさせてから、ああ、とセディカは苦笑する。

「頭が剥き出しだと落ち着かなくて」

 父の家にいた頃は、大抵はベールを被って過ごしていたのだ。もうその必要はなくなったけれども、習慣はなかなか、脱ぎ捨てにくい。

 ベールの代わりをと考えたときにバンダナを思いついたのは、トシュの影響だったのは間違いないところである。頭に被ることが目的なので、トシュと同じように額に巻いているわけではないのだけれども、いささか気恥ずかしい。

洒落(しゃれ)た感じになるもんだなあ」

 青年は感心したように褒めた。持ち上げすぎよと、少女は笑った。

「物忌みのこと、トシュどのはご存知かしら」

「宿屋の人に聞いたって言ってました」

 セディカが答えれば、それはそうねと従伯母は苦笑した。

 今日は河の神の祭儀がある日であった。復活から九年経って、十回目になる計算だ。祭儀は寺院の僧侶たちが行うので一般の住民は立ち会わないけれども、日暮れからは家に籠もって祈りを捧げることになっている。とはいえ、これといって特別な作法が伝わっているわけでもなかったから、(めい)(めい)が自己解釈でそれらしい過ごし方をしているのだとか。

 数日前のように客足の途絶えた午後、午前中に来た客が医者から貰ってきていた指示書を教材に、従伯母や店員を教師にして、薬の製造と処方についてセディカは学びを深めようとしていた。里の中央よりは北に診療所を持つ医者との、連携と分担についても教わることがあった。呑み込みが早いと褒められたのは嬉しかった――得意な気持ちになるというより、安堵に近い心持ちであったけれども。

 そうした穏やかな時間は、だが、

「――セディカ!」

 前触れもなく飛び込んできたキイに破られた。

「君の知り合いの仙術使いはどこにいる」

「ト、トシュのこと?」

 突然すぎてどもってしまったが、セディカの動揺をキイは気に留めなかった。ずいと目の前にやってきた勢いはほとんど詰め寄るようだった。

「君を助けたんならイッシャとカンだって助けてくれていいはずだな?」

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