供養塔の前でスーラが泣き伏していた。
トシュはしばし、気づかれるのを待つべきかと考えた後で、自分から声をかけた。
「よう。スーラ」
びく、とこちらにわかるほどはっきりとスーラの体は固まったが、観念したということなのか、立ち上がって振り返る。泣き腫らして赤い顔は、こちらを睨んではいるものの、憎しみや恨みは感じられない。
「マオが生きてることを知ってたな」
トシュは言った。
「死んだように見せかけるなんて、どうして乗った」
「マオが望んだからだ」
スーラは顎を突き出して答えた、
書き置きと靴とがマオの飛び下りを示唆していて、トシュもジョイドもそのように思い込んだけれども、スーラが騒いで追い出したからこそ、落ち着いて真偽を確認する暇もなくなったのだ。あのときスーラはマオに協力を頼まれていて、実際のところを知っていたらしい。
「ぽっと出のおまえたちなんかより、マオの方がずっと大事だ。マオの気持ちを優先するに決まってる」
言い切ってから、少し、視線を下げる。
「わたしはマオを揺さぶって遊びたいとも思わないし、わたしの言葉がなければマオは決断できなかったんだと言って悦に入りたいとも思わない。わたしは……マオの、純粋な拡張であろうと思った」
断ることはできただろう。それでよいのか、本当にやるのか、と問いかけることもできただろう。問われたことでマオは思い直したかもしれないし、反対に思いを強くしたかもしれない。
スーラのおかげで本当の願いに気づくことができた、と。
それとも、スーラのおかげで迷いを振り切ることができた、と。
マオに言わせたかったのではない――と。
マオのドラマに一枚噛んで、何か重要な役割を果たしたかのような気持ちよさに浸りたかったのではないと。
それがマオに対する誠意だったのか、スーラの中に閉じた拘りだったのかは、時を経た今になって話を聞いただけのトシュに決められることではない。少なくとも、スーラはわたしを説き伏せようとはしなかったよと話していたマオは、尊重されたと感じていたように聞こえたけれど。
「――マオに会ったのか?」
「マオのせいだぜ?」
そこだけはと主張する。詳細を明かす必要はないけれども、こちらから隠れ場所を暴いたわけではないとは言っておきたい。
「マオは、死んだのか」
「ああ。ジョイドが看取った」
スーラは息を吐いて、供養塔の傍らを見下ろした。
「これが枯れるのは、マオが死んだときだと」
視線を追えば、膝ほどの高さしかない、枯れた木が一本立っている。木の枝を折り取って地面に刺して、そうなるように術をかけたのだろう。マオも妖怪なのだ、その程度の妖術は使う。
伝わるようにしておいたのだ。伝わってはほしかったのだ。わからないままでは――きついだろう、スーラが。
「顔を見るか」
「……マオは、これ以上衰えた姿を見られたくないと言って出ていった」
「うん、俺らにもそう言ったが。あいつの希望ばっかり無条件に丸呑みすることもないだろ。おまえの希望はおまえの希望で検討するさ」
死ねば本性を現す、即ち兎の姿に戻るものとばかり思っていたら、予想に反して人間の姿を保っているのだ。自分はまだまだ物を知らないと見せつけられたような気分である。
スーラは数秒、誘惑に抗うような素振りを見せて、
「やめておく」
首を振った。
「マオの意志を尊重して、あんたたちを追い出したのに。自分のときにはマオより自分の意志を取るんじゃおかしいだろう」
「律義だなあ」
「融通が利かないみたいに言うな。それが正しいと思うからだ」
これまでとはまた違った目つきで睨まれた。悪い悪いとトシュは軽く手を振る。
見たいけれども、見たくない。
見たいなら見ればいい、見ないのは見たくないからだ、で片づけられるほど、物事は、世界は、一面的ではない。
打ち明けてしまって、スーラは緊張から解放されたように見えた。数日前、トシュの雲が近づいてくると聞いたときには気が気でなかっただろうし、怒鳴りつけて追い返してからもなかなか落ち着かなかったのだろう。嘘を吐き慣れている娘ではない。
「……誰かが、今じゃ見る影もないなと、マオのことを言ったらしいんだ。面と向かってじゃないが、耳に入ったんだろうな。そういうことが増える前に、去りたかったんだろうと思う」
「それでジョイドを真っ先に追っ払ったんだしな」
責められたような表情になる。まあ、これに謝る筋合いはない、放っておこう。
その後しばし、口を噤んでいたのは、話してよいものかどうか躊躇ったらしい。
「マオの旦那のことは知っているか?」
「マオが病気になったときに離縁したってやつだろ」
「……知っていたか」
人間の夫がいたと聞いている。〈雲の手前の里〉に来るよりも前のことだ。病気と、それも不治に等しい病と知って、ただちに離縁して追い出したのだという。
それからマオはしばらく居所を探して、あの古びた小屋で暮らし始めた。時折は人里に下りて医者に通ったが、薬草の話を聞いて〈幸いを積み上げた山〉に向かい、〈雲の手前の里〉の人々の厚意もあって住み着いた。仙人に薬草の扱いを教わって、病を克服したかに見えた。そして――。
ジョイドと出会った、わけだ。
「だから大目に見てほしいと言おうとしたのに」
「それを知らなきゃ、もうちょっとキレてる」
トシュは眉間に皺を寄せた。
愛した者に裏切られた。信じた者に捨てられた。恋人どころではない、伴侶だ。妖怪であることを知りながら妻に迎え、生涯を共に送ろうと誓った、そのときは恋と愛とを向けてきたはずの夫だったのだ。
悪夢の再来を恐れたマオを、責められるだろうか。かつての夫とジョイドが同一人物ではないというだけで、忘れろと詰れるだろうか。それが結果としてジョイドの不幸せに繋がったとしても――いや、正直、怒りたい気持ちもあるのだが。
「……マオが何歳なのかは?」
「五百ぐらいになんだろ」
「全部知ってるんじゃないか」
「全部かどうかは知らんが」
「言っていいのか迷ったのに」
スーラは頬を膨らませた。トシュは笑う。
「墓はここに造るか? それなら、骨は持ってくるが」
「里のみんなと相談してからだな。反対はされないと思うが」
無意識にか、里の方を見やる。
「マオは里にとっても恩人だったんだ。マオ自身のためだけじゃなく、里のためにも薬師で――わたしの姉のカーラもガーラも、マオのおかげで助かった」
そのことはカーラかガーラから聞いた記憶があった。今では友人らしく付き合っているけれど、幼いスーラはマオを英雄のように見上げていたと。
「ああ、顔を見なくていいかは、里の人間にも訊けよ。一人でも見たいっつうなら焼かずに連れてくる」
セディカと違って、雲に乗せて運べるのだ。――物なので。
抜け道だな、とスーラも笑った。
「他にも行くところがある。戻るまでに答えが出てると嬉しい」
「ん」
トシュは踵を返してその場を離れた。別に雲に乗るところをスーラに見られても問題はないのだけれども、
「スーラに何を話してたんだよ」
スーラを捜しに来たか、スーラの様子を見に来たのだろうサイが、トシュを認めて慌ててやってくるのに気がついたのである。
「マオが死んだんでな。報告に」
「スーラはもう俺の女房なんだからあんまり近づくなよ」
思わぬ方向からの文句に目を円くする。
「なんだ、くっついたのか。よかったな」
「白々しいんだよ。そんなこと言うなら帰ってくんな」
「スーラはマオのためにジョイドのことを聞き出したがってたんで、俺に興味があったわけじゃねえっつの」
「おまえが鈍いだけだよ。妖怪め」
サイはむすっとして俯いた。
「……一生若いやつの方がいいに決まってるじゃんか」
それもまた思いも寄らない視点で、和むなとトシュは頬を緩めた。確かに、マオがそうであったのと同様、トシュもジョイドも人間のようには老いていかない可能性が高い。
ジョイドはマオに夢中だとからかうように言ってやることはあるけれど、実際のところそれは誇張で、夢中だのべた惚れだのと表現するには、ジョイドはもう少し理性的だ。夢中とかべた惚れとか首ったけとかいう言葉は、サイのような場合に使うのである。
「じゃあ、おまえはスーラよりマオの方がいいのか?」
「馬鹿言え」
「ほら見ろ」
一瞬詰まるようなこともなく、間髪を入れずに返ってきて、一層微笑まれた。
スーラとサイには幸せになってほしいものである。夫に捨てられたマオのようにも、恋人に死なれたジョイドのようにもならず。
マオの葬儀は結局、〈雲の手前の里〉で行われた。ジョイドがその体を拭き清め、肌にも髪にも香油を塗り込み、含み綿で顔を整え、白粉をはたいて紅を差したので、里の人々の目に映ったのは、病に窶れた姿ではなかったはずである。反対にセディカはあの姿しか見なかったのだ、セディカにはあの姿しか知られなかったのだと考えると奇妙な気分だった。自分自身が厭うた姿で記憶されることは、マオにとって罰として機能するだろうか。
「お母さんにお礼を言っておいてね」
「おう。女親を持っててよかったわ」
ジョイドの言葉に、トシュは素直に頷いた。香油や白粉や紅は母が寄越したのである。〈花果物が満ちる山〉の草木から作った香油は、上等だ。
二人は〈幸いを積み上げた山〉の山頂に来て、高く太い檜の木に背中を預けて佇んでいた。大きいといっても神話的な大きさではなく、天を支えているのかと思われるほどではないし、太陽が梢で羽を休めるのかと思われるほどでもない。ただ、その枝には柴と草とで造り上げた大きな巣がかかっている。あれこそがマオに薬草のことを教えた仙人の住処なのだと聞いたけれども、めったに帰ってこないとも聞いた。
弟子の死を察して弔いに現れるのではないかと思ったのだが、やはり今日も巣は空っぽだった。会ったこともない相手なのだし、現れたらどういった話をしようという計画も特にないけれど。
仙人はいないものの、霊鳥が時々視界をよぎっていく。青鸞、彩鳳、玄鶴、錦鶏――特に高山に生息するというわけではなかったはずで、つまりここが仙境、乃至仙境に準ずる場所であるゆえに集まってきたのだろう。
「先のない自分の看病で俺を縛りたくないっていうのも本心だったと思うんだ。俺は別に旅に戻りたくてうずうずしてたわけじゃないけど、戻るものだとは思ってたから、それは伝わってたと思う」
マオの嘘にジョイドは触れた。
ジョイドを縛りたくない。かつての書き置きが述べていたこと。建前にしては真に迫っていたとトシュも思う。
「捨てられる前に自分から、っていうのも……俺がマオを捨てて逃げるかもしれないっていうのも、それはそれであったんだろうけど。……俺が、最初は甲斐甲斐しく世話をして――段々面倒がるようになっていって、里から逃げて終わるようなことになったら耐えられないからって……言われて、そんなわけないだろうって言い返すのは簡単だけど。恋に恋して逆上せ上がってれば何でもできる気にもなるからね」
マオの恋人は自分に容赦なかった。重病人の介護など、気持ちでどうにかなる労働ではない。その事実を冷静にみつめる者よりも、自分には愛があるから大丈夫だと陶酔している者の方が、きっと現実に直面したときに音を上げやすいだろう。
「付き合い始める前から数えたって、一年程度しか一緒にいなかったんだし。信じろって言うには、それまでの積み重ねが少なすぎたよ」
「どっちかっつうと、信用していればいるほど、裏切られたときのダメージがでかすぎて怖いんじゃねえかとも思うが。俺は」
言って、少し経ってから、これは自分のための牽制になるだろうかと気がつく。ジョイドへの信用と信頼と当てを裏切られたとしたら、いろいろと、きつい。
どうせ死ぬならジョイドの心に自分の存在を深く刻みつけてやろう、という意識はあったのだろうか。それならそうと白状したような気がするから、それはないか。セディカを襲った、またはそれを知られたことで、一種の諦めがついたと言おうか、どんな不幸も不運も不都合も、あのような悪事を働いた以上はやむなしだと受け入れてしまった節があったから。後ろめたい過去があるなら、いっそ積極的に明かした気がする。
「……おまえが、マオの世話をして。そんな理由なら、俺も〈雲の里〉に残って。そしたら……セダは、あの山で野垂れ死にしてたわけだ」
トシュは起こらなかったことを推測した。
「マオよりセダが大事だってんじゃねえが。そうなってたら、セダがあんまりに――哀れだった、な」
セディカだけではない。自惚れでもない。あれから今までに、自分たちに助けられた者たちは幾人かいるはずだ。マオのそばにいたなら、苦境にあることすら知る由もなかった者たち。縁もゆかりも思い入れもなかった他人。
会話はしばらく、途切れた。トシュはぼんやりと葬儀に参列した人々を思い起こした。マオが身投げを装って、スーラの手を借りてジョイドを追い出したことは、当時〈雲の手前の里〉の人々を相当に困惑させたらしい。やりすぎだ、とは普通、思うだろう。死んだと見せかけるなど洒落にならない嘘だと憤る者もいれば、そうまでして追い払わなければならない原因がジョイドの方にあったのではないかと疑う者もあったというが、そうしたごたごたは既に片づいていて、今になって青年たちを悩ませることはなかった。疑問が解消したということではなくて、どうしてあんなことをしたかねという声は聞かれたが。
――本当は、本当に、飛び下りるつもりだったのではないか。
一度か二度、そう感じた。遺書をしたためているうちに思い直したのかもしれないし、スーラの顔を見たことで踏み留まったのかもしれない、などと考え始めるとそれはもう想像で、マオの言葉にも仕草にも顔色にも根拠はない。恐れたのはジョイドが去っていくことばかりではなく、自分が再び同じ衝動に駆られることも、だったのではないか――というのも、やはり想像だけれど。
もしも。最初のうちだけではなく、ずっと。ジョイドが甲斐甲斐しく世話をして。にも拘らず、発作的に、結局自死を選んでしまったら。そんな形で裏切ることになったら。そんな結末を迎えるぐらいならと、思ったのではないか……とは、マオと話しているときに抱いた推測だった、はずだ。マオをかばいたいための記憶の改竄ではないかと、時間が経てば経つほど自信はなくなっていくだろうけれども、今はまだ、言い切れる。
「――セディの、ことなんだけど」
切り出すように、ジョイドが口を開いた。
「死んだよ」
「……うん」
トシュが現れた時点で察してはいた報告をセディカは聞いた。
「何つうか、悪かったな」
「トシュが謝ることなの?」
「まあ、俺が悪いってほど悪くはねえだろうが。……どう立ち回るのが正解だったんだかわからん」
首の辺りに手をやって、トシュは困ったように口元をほぐした。
「ともかく、礼を言うよ。あいつはすっきりした顔で逝った」
それはもうすっかりマオの身内としての言葉であった。
「従伯母様にいつ時間を作れるか訊いてきてくれ。それと、おまえも別に時間取れるか」
「従伯母様たちの後がいい、前がいい?」
「口裏合わせとくか?」
これは冗談だろう。
「いつでもいい。急ぐことじゃないが、引っ張ることもねえだろ」
セディカは中に引っ込んで相談し、今度は従伯母と一緒に出ていって、従伯父と従伯母のためには明日の午前中に再訪してほしい旨を伝えた。セディカの方は今からでもと言えば、それならとトシュは頷いて、二人は共に家を離れた。
セディカは南方へと道を取った。しばらく歩くが、やがて社が見えてくる。
「河の神か」
「里の守り神でもあるんだって。河の氾濫から守ってくださるようにって祀ったのが始まりだって」
渡し舟がなくては向こう岸に行けないどころか、向こう岸が見えてもいないほどの大きな河で、渡った向こうは隣りの国だ。セディカがこの里に来てから今までに、一度だけ、あちらの商人たちが河を越えて商売に来た。
河の畔の小さな村里が発展して大きな町になり、〈慈しみの君〉や〈実りの君〉といった天の神々の寺院が建立される頃になると、かつての素朴な守り神信仰はほぼ絶えたらしい。打ち捨てられた社を寺院が見兼ねて管理するようになって、時を経て十年ばかり前に祭儀も復活したという――人々が集まって騒ぐような祭りではなくて、捧げ物をして祈るという、言わば中核だけだそうだけれど。管理者が常駐しているわけでもないし、賑わうような場所ではない。
「ここなら誰かに聞かれることもないと思うけど」
「……言っちゃなんだが。自分より腕力のあるやつを人気のない場所に案内すんなよ」
苦虫を噛み潰したような二十代半ばの青年に、ありがとう、と十代前半の少女は苦笑した。相手が相手なのだから警戒することもないのだけれど、危なっかしく思われるのも道理ではある。
本題を切り出しそうな素振りを見せて、だが、トシュは呻った。
「どっから話したもんかね」
「あの人とどういう知り合いなの?」
そう訊いたのは助け舟を出したつもりだった。
「因縁があるって言ってなかった?」
「ジョーを捨ててバックレやがったんだから因縁だろうよ」
「……捨てて?」
「……あー……」
天を仰いでいる。却って困らせたろうか。
「俺が言っていいのか、寧ろ俺の方で言っとかなきゃならんのか。……その、何だ。……恋人だよ」
セディカは目を円くした。
「ジョイドは大丈夫?」
まず口を衝いた言葉はそれだった。トシュの方が今度は少し瞠目してから、マオの知り合いと旧交を温めてる、と頬を緩めた。
「そもそも生きてると思ってなかったから、今さらっちゃ今さらなんだよな。病気なのは知ってたし、とっくに死んだものだと」
そこには大胆な省略があったわけだが、省略されたのだからセディカにはわからない。
「……すぐ死ぬんだから大目に見てやれ、とかいうつもりでもなかったんだが。今日明日で死ぬってやつを責めらんなくてなあ。おかげであいつは死に逃げで、何も償ってねえわけだ」
トシュは嘆息した。
「時間がなかった。それが全てなんだわ。二日保つかもわからんやつに、二日保つかもわからん以外のことを考えていられなくて……おまえを随分後回しにしちまったな」
当然だろう、と思う。当然だからと開き直れるわけでもないにせよ。マオがこんなにもすぐこの世に別れを告げる身でなかったら、セディカだって感じることは違っただろう。
「ちゃんと寝れてるか」
「大丈夫」
微笑で応じた。眠るまでにはあれこれと、主にマオがもうすぐ死ぬことについて、考えずにはいられなかったとしても、眠ってしまえば怖い夢を見るようなことはなかった。
自分はこんなにも不幸なのだから、おまえは自分に奉仕して然るべきだ――などと言われれば、それが命を差し出せという意味でなくたって、反発を覚えるのが自然である。何故そうはならなかったのかと思い返せば、つまり、そんな風には聞こえなかったのだ。あんたには恨みも落ち度もない、ただのあたしの命惜しさだと、……要するに、自分のために死んでくれとは、言われたけれど。
生きるためだと。自身の命には代えられないと。本当に生きていたいなら、生きるためのどんな努力も厭わないはずなのだと。自分にこそ言い聞かせているように感じたのは本当で、マオを慰めるための方便だったわけではない。誰か他人にそう言われたのだろうかとさえ思われたのも、半ば正解だったらしい――他人に向かって説教や講釈を垂れるのが好きな知人がいて、その知人が過去に語っていたことだったらしい。
正真正銘、自分の意志だ、とマオは自嘲していたけれど、その知人が責任を問われないのは理不尽なことである気がした。いつか命が危うくなったときには他人を犠牲にするように、と刷り込んでおいたわけではないか。そのときは鼻で笑って聞き流していても、いざ死が旦夕に迫ってきて精神的にぼろぼろになれば、かつて仕込まれた毒が効き始めることは十分考えられるだろうに。
「そんなら、話すが。あいつがおまえに目をつけた理由なんだがな」
「あ、うん」
これが本題だろう、とセディカは改めてトシュの顔を見上げた。
発端は偶然だったらしい。自分の薬を自分で作る知識も技術も持ってはいたものの、薬草を探して摘むところから始めるのが段々辛くなってきて、まずはあの山から一番近い人里で買い求めるようになった。その薬があまり効かなくなってきたように思われたのは、正しい感覚だったのか気のせいだったのか、薬がよくないせいだったのか病が進んだせいだったのか。ともあれ、店を変えてみることにして、〈高寄と高義と高臥の里〉の薬屋に足を運んだのだという。つまり、一度は客として来たのだ。そこでセディカを見かけたわけである。
「いい環境で育った若い娘だからかね。美味そうに見えたっつうよりは、健康によさそうに見えたらしい」
「健康に……?」
少女は目をぱちくりさせた。新鮮な野菜みたいな、と補足する青年も、今一つピンと来ていないようだった。
「人を食う妖怪とは付き合いがねえからなあ、そんな話は初めて聞いたわ。おまえと会ったことのある、妖怪と人間の混血のやつにも訊いてみたがね、まあ、おまえが美味そうに見えるだの健康によさそうに見えるだの、そもそも食えそうに見えるっつうことも全くない、とさ」
これはトシュとジョイドのことだろう。自分たちが妖怪であることを、二人は人里で口にしない。……そうした用心をしなくても済むかと思って人気のない場所に来たのだけれども、あまり意味はなかったか。
「これまでにも、妖怪に狙われるようなことはあったのか?」
セディカはふるふると首を振った。ううん、とトシュは首をひねる。
「怖がらせたくはねえんだが。すっきりしねえんだよな、理由がわからんってのは」
「……みんなに何て言ったらいいのかな」
襲われた少女はそこを気にした。
自分はよいのだ。方士たちへの信頼がある。二人が対処してくれたからには大丈夫だという、非論理的な安心感がある。が、普通はそうはなるまい。よくわからないままでは、怖いだろう。
「おまえの保護者には話すが、他のやつらには一旦、適当な理由を言ってやった方がいいかもしれねえな」
生まれ日時のせいにでもしとくか、などとトシュはしばらくぶつぶつ言っていたが、追い追い考えることにしたらしい。
「外面はともかく。マオも自覚してなかったような原因があるかもわからんねえからな。一応、しばらくこの里にいて、おまえにまた何か起こらないかどうか見ておこうと思ってる。ここに来て三ヶ月だったな?」
「うん」
「じゃあ三ヶ月はいるか」
さらりと言われたのでセディカは戸惑った。
「だって、三ヶ月もしたらもう冬じゃないの」
そのタイミングで旅路に戻るには向かない季節になってしまうのではないか。
「マオにかまけて蔑ろにしてた間の埋め合わせにな」
トシュは肩を竦めた。
……山奥に捨てられたセディカを山の外まで――のみならず、親戚の元までわざわざ送り届けてくれた二人なのだ。親切は先刻承知ではあった。ジョイドには相談してあるのだろうかとも思ったものの、ジョイドもしばらく、この辺りを離れる気にはなれないのかもしれない。
「……じゃあ、ここのお祭りを見られるわね」
漠然と北へ視線を投げたのは、寺院に祀られている〈実りの君〉と、収穫祭とを思い浮かべたためだ。申し訳ない気持ちにもなるけれども、トシュとジョイドが近くにいるのであれば心強いし、単純に嬉しくもある。山で助けられてからここに辿り着くまでの間に、元々は通りすがりの赤の他人であった二人は、すっかり慕わしい相手になっていたので。
用心のしすぎかもしれんがなと、怖がらせないためにか、トシュは言い添えた。
「後はまあ、一個だけ言っとくとな。この先誰にどんな迷惑をかけられたとしても、『マオを赦しておいてこいつを赦さないのはおかしい』っつう判断はするな。おまえはやりかねん」
素直に、少女は頷いた。やりかねないと、自分でも思った。