岩肌に激突するかというところで、風はぐいと曲がって地面に下りた。長い髪を乱し、息を荒らげながら、一人の女性がそこに現れる。雲を飛ばして追ってきたジョイドも、その手前に降り立った。

 (はた)で見る者があれば、追いつめた、と受け取ったかもしれない。逃がすまいと立ちはだかるようだったし、口を()く前からただならぬ剣幕に満ちていた。その顔まで見ることができれば、すごい(ぎょう)(そう)だというだけでなく――泣きそうだ、とも感じられただろう。

「なんで俺は君が死んだと思ってんの!?」

 女性は目を(みは)った後で、泣き笑いの顔をした。

「最初にそれを怒るのかい」

 それから、()き込み、胸を押さえて(うずくま)る。何も知らずとも不安を()き立てられるような(せき)だった。

 ジョイドは駆け寄った。

「マオ」

「見ないで」

 体ごと横を向いて顔を覆いかけた女性は、だが、ふと動きを止めてから、おもむろに両手を下ろしてジョイドを見上げた。

「いや、よくご覧。これが何の罪もない子供を私欲のために食おうとした醜い女だ」

 その姿は、記憶の中のマオとは差のあるものだった。肌はかさついて頬は()け、折れ曲がったような荒れた髪の間で、目は異様に輝いて見える。無理な微笑みを形作る唇の血色も悪い。

 片膝をつき、目の高さを合わせる。

「あれから一人でいたの? 一人で、闘病を?」

「まさか。〈雲の手前の里〉にいたもの。スーラたちが世話をしてくれたよ」

「俺だけ追い払ったの?」

 無意識に、顔が(ゆが)んだ。

「君を看病してちゃ、俺が旅に戻れないから?」

 遺書は――否、遺書ではなかった書き置きは、そう告げていたのだ。自分に縛りつけたくない、恋人の生き方を変えたくないと。

 そのために、死んだと見せかけてまで?

「……いや。違うね」

 少しだけ目を泳がせてから、観念して白状するような、どこか悟ったような風でマオは言った。

「捨てられるのが怖かったからだよ」

「捨てやしないよ」

「そうだったかもね」

 ……認められては、言い募れない。

 ジョイドがわかっているように、マオもわかっているのだ。見捨てはしないと、いつまでも支えると、最初は本気で誓っても、恋人が衰えていくのに合わせて陶酔も熱意も冷めて()せて薄れて、最後は自分こそが犠牲者のような顔をして逃げ出したかもしれない――し、そうはならなかったかもしれない。ずっとそばにいたのにとジョイドが主張しようとも、いずれ去っていったに違いないとマオが否定しようとも、口先だけの空虚な攻防が展開するだけだ。仮定と仮定、想像と想像をぶつけ合っても、何にもならない。

 ジョイドはマオの肩を抱いた。

 記憶とは違う。以前とは違う。()せて、(やつ)れて、(しな)びて、すっかり変わり果てた、――だが、間違いなく、マオだ。

 墜落死した体でも、水死した体でもなく、生きたマオがこの腕の中にいる。

 (なき)(がら)ではなく、生きたマオがこの腕の中にいる。

 身を固くしたのがわかったが、やがてほうと息を吐き出して力を抜くのもわかった。頭を寄せて、ジョイドは(ささや)いた。

「あの子を食べれば、治るって?」

 セディカは呆然と、開いた扉の向こうのトシュをみつめた。ジョイドはすごい勢いで飛び出していってしまって、つい先ほどまで穏やかに励まされていた四人は、(あっ)()に取られる他、なかった。

 トシュが何と叫んだのかも、はっきりとは聞き取れなかった。というより、名前のように聞こえたけれども、短かったから確証が持てない。だが、やはり、ジョイドの反応からしても。

「知ってる人なの?」

「……まあ、ちょっとした因縁がある」

 歯切れ悪く答えて、トシュはがりがりと頭を掻く。

「とりあえず、大丈夫だ。人間を食ったなんて俺らに知られたかねえはずだし――俺らの知り合いじゃ、なおさら食うわけにはいかんだろう」

「知り合いなんですか? 妖怪と?」

 信じられないというような再従姉(はとこ)の問いに、横でセディカはぎくりと顔から全身までを強張らせた。

 が、トシュから返ってきたのは、もどかしさに苛立つような苦笑いだった。……セディカが恐れたものとは、違った。

(うさぎ)の妖怪だよ。元々、肉なんざ食い慣れてねえ」

 兎と聞いても、なるほど兎らしい格好や仕草をしていた、と思い当たるところは特になかった。人間の姿になってしまえば、その正体に当たる獣の気配は特に残らないのだ。

「兎の妖怪で――人里で、妖怪だってことを知ってる人間に受け入れられて暮らしてたやつだ。人間社会で迫害されてたんなら復讐に出てもおかしくねえだろうが、人間社会で隣り近所と仲良く過ごしてたんなら、それとこれとは別だとか何とか言ってさっくり食う気にはなれねえだろうよ」

 そうした話は、セディカは前にもトシュとジョイドから聞いたことがあった。妖怪だからといって、必ずしも人間を食べるわけではないと。

 何なら肉すら食べない妖怪も珍しくないと聞いたけれども、二人が語ったところでは、兎だから食べないとか、狼なら食べるとかいった理由ではなかったはずだ。長く生きて妖怪に変じるような獣はどうしても絶対数が少ないから、妖怪同士が親しくなったとき、兎同士や狼同士である可能性はどうしても低くなる――兎と狼であったり、兎と猿であったり、兎と鷹であったり、兎と犬であったりする。いつ兎と親しくなるかわからないのに兎は食べにくい、狼も猿も鷹も犬も同じように食べにくい、そういうわけでつまるところ一切肉を食べないという妖怪も、(かえ)って、しばしば、いるのだと――。

 ……いずれにせよ。

 トシュはセディカに目を向けた。

「俺としては、もうおまえに危険はないと確信してる。おまえについてないで、あっちを追っかけても問題ないってな」

 護符に守られながら引き()もっている必要もない、という。

「おまえは、信用できるか――怖いか?」

「……怖いけど」

 セディカはトシュの目をみつめ返した。

「トシュがそう言うなら、信用できる」

 大丈夫だと、安易には言わないだろう。

 トシュは口元に笑みの形を作った。

「夜になるかもしれんが、今日中に一度戻ってくる」

 そう約束して、ジョイドよりも冷静に、トシュもまた姿を消した。

 トシュは――半分以上、妖怪だ。

 少なくとも、セディカはトシュが狼の姿になったところを見たことがある。父親が狼なのだと、その後で聞いた。母方の祖母は人間だが、母方の祖父は――猿だと、聞いた。

 厳密には狼とも言い切れず、厳密には猿とも言い切れず、人間の血も引いているから、厳密には妖怪とも言い切れない。

 ジョイドもまた、鷹を父に持ち、犬を祖父に持ち、人間を祖母に持つのだという。狼の妖怪が狼の妖怪とだけ、鷹の妖怪が鷹の妖怪とだけ、交流することが難しい以上、こうした混血も自然に起こるものらしい。……人間との混血はどうなのだろう、聞かなかった気がするけれど。

 無論、妖怪として異端ではないからといって、即ち一般的な妖怪であるとも、平均的な妖怪であるとも、代表的な妖怪であるとも限らないのだが。そこいらにいる人間よりは、妖怪のことをわかっているだろう。

 周りの人間に、二人の正体を勝手に明かしてしまうわけにはいかないが。大丈夫だ、というのがトシュの見立てなら――大丈夫、なのだ。

 自分は。

「〈天帝〉の甥だろうが!!」

 トシュは目を見開いて怒鳴った。

 ジョイドを追いかけ、マオに追いつき、二人と少しだけ話した後で、前には思いつかなかったことをトシュは実行しようとした。つまり、誰彼構わず頼ること――である。

 死んだはずのマオが生きていた事情は後回しだ。大体、亡骸は見ていないのだから、実は生きていた、で片づく話である。が、再会の喜びに浸る間もなく、本当に死んでいこうとしているところだとなれば。

 今こそ、今度こそ、ありとあらゆる伝手(つて)を総動員するときではないか。

 大方は父や祖父の縁であって自分自身が築いた人脈ではないが、そんなことに遠慮している場合ではない。猿に生まれて妖怪と変じ、天を騒がし地を(おびや)かすほどの力を身につけながら、修行を積み徳を積んで不老不死の仙人となった祖父は、天の神をも驚嘆させて親交を持った。父もまた、天からも一目置かれる偉大な古狼である。父の子であるから、祖父の孫であるからと、トシュに目をかけている、それとも目をつけている者たちを、ここで利用しなくてどうするのだ。

 祖父仕込みの雲に乗って空を駆け、心当たりを片っ端から回り始めたトシュは、だが、壁にぶつかった。誰もが、首を振ったのだ。馬鹿なことをとあしらうでもなく、(おそ)れ多いことをと咎めるでもなく、気の毒そうに。

 身分という意味では相当上位にいるはずの〈天(せい)〉でさえ、例外ではなかった。

「わたしのところに最初に来たわけじゃないんだろう。君なら真っ先に〈慈愛神〉のところに行くはずだ。聞き入れてやれるものなら、〈慈愛神〉が聞き入れないわけがないと思わないか」

 指摘は(もっと)もで、青年は(こぶし)を握る。実のところ、〈天甥〉よりもそちらに期待していた。慈愛、慈悲、慈しみ――それは可哀想だねと、世界で一番言ってくれそうな相手に、頷いてもらえなかったのは想定外だった、が。

「〈慈愛天女〉は別に万能じゃねえだろ」

 助けようと思うだけで助けられるものであれば、その通り、あの女神が助けてくれただろう。だが、気持ちだけでどうにかなるものではないのであれば。病気を癒やす能力を持たないのであれば、死病を治す権限を持たないのであれば――〈慈愛天女〉は医療の神でも生死の神でも最高神でもない。

 誰にも助けられないと、決まったわけではない。

 〈天甥〉は額の第三の目を指した。

「この目に期待しても駄目だよ。彼女を救う方法は見えない。反対に、いかに彼女を救えないかが見えるばかりだ」

「……〈天帝〉に口を利く気もないってことだな」

 トシュはくるりと身を(ひるがえ)して雲に飛び乗った。

「じゃあ用はない!」

 本当はもっと侮辱的な、深く(おとし)めて手酷く傷つけられるような捨て台詞(ぜりふ)を吐いてやりたかったのだけれども、(とっ)()に思い浮かぶものではないし、今後頼れるはずのことまで頼れなくなっても困る。焦りをぶつけるように、トシュはこれでもかとばかり速く速く速く雲を飛ばした。

 後は誰だ。誰がいる。

 何とかしよう、と言ったのは祖父だけだ。その後どうするつもりでどこに行ったのかはわからないし、それで上手くいく見込みがあるものなのかもわからない。あの祖父なら、冥府に乗り込んで冥府の役人を脅しつけるぐらいのことはやりそうだけれども――。

「狼どの、〈末の狼〉どの!」

 聞き覚えのない声に後ろから、それとも上から叫ばれて、トシュはぴたりと――とは流石(さすが)に行かず、数秒かけて停止した。

 トシュが狼の子であることを隠しているのは人間に対してであって、人間でない知り合いに対しては隠す理由もないし、わざわざ明かすまでもなく向こうから見抜いてくる者もある。〈末の狼〉と呼んでくるのは、トシュの父親を把握している者だ。父の末子であることを指した言い方なので。

 追い(すが)ってきたのは、緑の衣を身にまとった、天女のようにも映る女性であった。本人に見覚えはないものの、その衣には()()みがある。

「〈慈悲神仙〉にお仕えしている者でございます。狼どの、兎どのの元へお戻りになってください」

 〈慈愛天女〉を別名で呼んで、女性は切々と訴えた。

「兎どのの運命を大きく変えることはできませぬ。ただ、最期を安らかに迎える手伝いはできましょう」

「……あんたの主人がそう言ったのか」

 助けることはできないと断り、飛び去るトシュを飛び去るに任せた、あの女神が。こうして使者を遣わしてまで。

「ええい」

 雲の向きを変えて、頭だけで一度振り返る。

「礼は言わんとあんたの主人に言っとけ!」

 怒鳴るが早いか、飛び出した。ジョイドの元へ――マオの居場所を(とら)えられるわけではないので。

 最後の一秒まで、可能性を探して駆けずり回っていたい。

 が、顔を見られず声を聞けないまま、その一秒を越えてしまったら。……見届けられなかったら。後悔を、するだろう。

 万能でこそ、全知全能でこそなくとも、〈慈愛天女〉は天の神だ。そして――恐らく、天の神の中で一番、トシュに――甘い。あの女神がもう戻れと勧めるのなら、……そうするのが、自分にとって、一番なのだ。

 やめたくないけど、やめたいことは。

 見たくないけど、見たいのは。

 空を駆け抜けて戻ってきたのは、山の中にある古びた小屋であった。マオの昔の住処であり、今の住処であるという。〈雲の手前の里〉に移り住む前に住んでいたものが、まだ壊れることもなく無人のまま残っていたから、この一月ばかりはここで寝泊まりしているのだと。

 〈雲の手前の里〉を離れた事情はまだ聞いていなかった。

 入ってよいものかと(ちゅう)(ちょ)していると、扉が開いて、ジョイドの方が出てきた。柔らかい表情を浮かべているのは、トシュに余計な不安を抱かせないため、なのだろう。

「寝てる」

「……そうか」

 息を引き取ったところ、ではない。のは、よいが。

「トシュ。もういいよ」

 微笑を湛えたまま、ジョイドは告げた。

「やりようがあるなら、もうみつけてるでしょ。おまえがずっと飛び回ってるのは、どうしようもないから、だもの」

 強がりではない、受容の表情に――こちらが掻き立てられたのは、逆の感情であった。

 突然の別れが降りかかっても変わらず想い続け、今、思いがけず再びその腕に抱いた恋人を、すぐさま再び失おうとしている相棒に。

 このまま、諦めさせるのか。自分も同意するのか?

「俺が手を抜いてねえことを、おまえがわかってんならいい」

 トシュはジョイドこそが敵ででもあるかのように、ほとんど睨みつけるようにした。

「ぎりまで探す」

 この反応は、しかし、想像の範(ちゅう)を出なかったのだろう。

「それよりも、桃か()(どう)を手に入れられないかな」

 マオが好きでしょ、とその恋人は穏やかに言った。

 それはもう生存は諦めて、残された時間をどう過ごすかに重点を切り替えた頼みであった。あの緑の衣の女性が言っていたこととも合う。最期を――安らかに迎える、手伝い。

 返答にしては長すぎる時間を置いて。

 心を決めて、強引に、トシュは笑んだ。

「任しとけ」

 祖父と母がいるあの山、あの仙境は、季節を問わず花が咲き、実が生る。〈花果物の満ちる山〉の名で知られるように――場所が場所だから、そう広く知られてはいないのだけれども。

 そして、あの仙境の土と水と空気で育った実は、(やまい)に弱って鈍くなった舌にも、損なわれることのない本来の味を届けるだろう。

 顔を合わせた祖父に謝られたのはいささか(こた)えた。一度やる気になった祖父が断念に至るとは、望みがないことを裏打ちするようではないか。どこに何をしに行って、どうなったから諦めたのかは訊かなかった。知ったとて、何にもならない。

「軽蔑したかい」

「あの、なあ」

 積み上げた枕で上半身を支えて微笑むマオに、トシュはぎくしゃくと眉を寄せた。

「俺だって妖怪だぜ。人間が兎を食うのはよくて、兎が人間を食うのはいかん、とは言わねえよ」

 この言い分には嘘がある。人里で育っているからには、人間を食べる妖怪に対して、反感を抱いてはいるのだから。

 が、人間の基準で妖怪を断罪することに抵抗があるのも事実だった。自分が許容できなくとも、悪事ではない。決して。

「ほら」

 マオは寄り添うジョイドに笑いかけた。

「そっちの話だと思うのが普通じゃないか。最初にあのときの――あたしが死んだと見せかけたときの話をするのがおかしいんだよ」

「そこを気にしてねえわけじゃねえからな」

 顔を(しか)める。今現在のことが重大すぎて、過去のことまで回らないだけだ。

 それに。

「けど、それはおまえとジョーの話だろ。俺が口出すことじゃねえや」

 ジョイドの道連れであるゆえに、余波を(こうむ)ったにすぎないのだ。納得させろと要請する筋合いなど、自分は持ち合わせていないだろう。

「それよか、あのお嬢さんだよ。……手を出さないでほしいんだわ」

 知った顔なんだ、と言ったのにも()()()しはあった。じゃあ他の人間にしておくよと応じられたら、それで手を打とうと頷けるわけではない。ただ、知人なのだという訴えは、有効だろうと思ったので。

「……あの子には悪いことをしたよ」

 病人は目を落とした。

「怖かったろう。食べるぞ食べるぞと脅されて」

「怖がるよりも」

 一言だけで止めたのは、同情していたと言えば――同情に値するマオの容態を匂わせることになるからだ。

「……周りを巻き込むことの方を気にするやつだよ。親のせいなのか何なのか知らんが」

 そう続けてから、今の親じゃなくてなと付け加える。セディカの家庭事情を言い触らしたいのではないが、親とだけ言っては薬屋の店主夫妻に濡れ衣を着せることになろう。

 一文一文に気を遣うものだなと、内心で苦笑した。そんなに喋りにくい間柄ではなかったはずなのだが。

「とにかく、あいつを困らせないってんなら俺は文句ねえわ。そら」

 この話は終わりだとばかりに、トシュは深皿を二つ載せた盆を突き出した。深皿の中身は小粒の葡萄と切った白桃である。本題はこちらだ。

 ありがとうと、病人は葡萄の粒をつまんで食べ始め、思いなしか軽く目を瞠って、美味(おい)しい、と呟いた。地元の名産だ、とトシュは適当なことを言った。葡萄も兎には似つかわしくない食事だが、妖怪になったということは人間に化けられるということで、人間が食べるものは食べるわけである。その気になれば肉だって、理論上は人間だって。

 マオは次に桃を食べてみて、美味しいよとジョイドにも勧めた。勧められるままに葡萄と桃を口にして、本当だ、甘いねと微笑んでいるのを、何を見せられているのだろうというような思いで眺める。何時間も経たないのに板についていると言おうか、病人を抱えている家に自分だけが客として見舞いに来たような気分だ。おまえもこっち側だろうが。

 ……方々で、行く先々で、これでもかとばかり望みを(くじ)かれたから、トシュは受け入れざるをえなかったわけだが。だからとて、ジョイドも諦めがつくものなのだろうか。マオは――この上は人間を食べるしかないと思いつめたほど、自分に先がないことを悟っているのだろうけれど。

 尤も、二人が長閑(のどか)な光景を描いていたのは少しの間だった。やがてマオは微笑みを消すと、真剣な、縋るかのような目をトシュへ向けた。

「あたしがあんたに言うことでもないが。ジョイドを、頼むよ」

 不意を()かれて(まばた)きをする。ジョイドを真横に置いて切り出すとは予想外だった。

 内容自体は、意外でも何でもない。というより、前にも同じことを頼まれた。遺書ではなかった書き置きの中で。

「あたしがいなくなっても、ジョイドを」

「心配すんな。一回やってる」

 肩を竦める。冗談にしてはきついかとは思ったが、これくらいは言ってやっていいだろう。「一回やる」破目になったのは誰のせいか。

「俺はこいつを見捨てなかった実績があるし――こいつも、おまえを忘れなかった実績がある」

 シミュレーションができてしまっているのは、ちっとも嬉しいことではないが。見映えだけで実体のない張り子の抱負ではないと、証明できるわけではあった。

 迫りくる死に言及されたためだろう、ジョイドの顔には影が差したけれども、不吉な話をと厭わしがる様子はなかった。目を背けても仕方ないとはわかっているのだ。

「平気だとは、言わんが。何とかやっていけるだろ」

「……ありがとう」

 マオはほっと息を()いてから、緩んだ顔をもう一度引き締めた。

「もう一つ、頼みがある」

 机の上に書き置きが残っていて、崖の上に靴が残っていて、崖の下に河が流れていて。

 亡骸は見ていなかった。

 だから実は生きているのではないか、と推測するべきだったのだろうか。

 気づかなかったせいなのだろうか?

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