それでいいなら、いいんだが。
トシュはちらりと傍らを歩く相棒を見やった。夜に、否、何なら昼のうちにだって、人目を避けて〈雲の手前の里〉に忍び込むことも、供養塔を教わらずに探し出すことも、自分たちにはできそうなものだが。律義にこのまま、去るつもりなのか。
昨日までもそうしていたかのように、二人は旅路に戻っていた。
西に行こう、というのがトシュとジョイドのここしばらくの目標であったが、ために立てた目標であって、西に用事があるわけではない。前には西から東へ向かったから、今度は東から西へ戻ってみるというだけだ。元より、東西南北の果てから果てへでも、雲を走らせれば一日のうちに行き来できるのだから、用事があるなら地べたを地道に歩いてなどいないのである。
つまり、〈幸いを積み上げた山〉の麓に留まったり、近辺をうろうろしたりしながら、スーラが根負けするのを待っていても、用事に間に合わなくなるとか先方を待たせるとかいった類いの差し障りは何もないのだ。が、ジョイドは迷う風も悩む風も見せず、速やかに立ち去ろうとしていた。それでいいのか、とトシュが異を唱えるのもおかしい気はするが、……それでよいのだろうか。
尤も――マオが遺した書き置きには、ジョイドを縛りつけたくないとあった。自由な旅人であるジョイドを自分に縛りつけて、鳥の羽を切るように生き方を変えてしまいたくないのだと。何とかして供養塔を拝もうと食い下がるようでは、あの願いに反することになるかもしれない。一方的に押しつけていった期待ではあるけれども、ジョイド自身が応える気でいるのなら――茶々を入れるものではない。
独り決めが過ぎるとは思う。一足飛びに極端な結論を出してしまわずに、もう少しジョイドと何か話してほしかったとは思う。最初から直接話すのが怖ければ、トシュもスーラも喜んで間に立ったろう。が、〈雲の手前の里〉に移り住むよりも前、病に冒されていることが初めて知れたときに、……信頼していた相手に逃げられた過去を聞いてしまっている以上は、その傷と悪夢を軽んじることもできない。ジョイドがどんな思いをしたかと、恨む気持ちもなくなりはしないけれど。
大体、恐らくは今度こそ死んで終わるだろう病気の再発に際して、マオが本来取るべきであった適切な対応など、存在しないに違いないのだから――誰が何をどうしても、すっきりするはずがないのである。
唐突な異変はジョイドではなく、トシュの方に発生した。
呼びかけられたときのように、ふっとどこかに意識を引きつけられたと自覚する間もなく、きぃんと、額が熱く――それとも冷たく、なったのだ。
「な、ん」
バンダナ越しに額を押さえて、トシュは立ち竦んだ。傍からは目眩を起こしたようにでも見えたかもしれないが、つられて足を止めたジョイドにはどう思われたのかと、注意を払うゆとりはなかった。
耳に、それとも頭の中に、わんわんと音が響いているような、何かの――主張。何かが起こっている、自分に働きかけている、額から食い込んでくるような、――いや、それとも、解き放たれようとしているのだろうか?
「何が――」
ジョイドがさっとバンダナを奪い取った。
「――何だとしても、〈慈愛神〉の思し召しだね」
〈慈愛神〉。
東では〈慈愛天女〉と呼ぶことが多いから、トシュもそう呼ぶ。〈世界狼〉が〈武神〉に拘束されたとき、天の神々の中で唯一、かばったという女神。
露わになったとて自分の額は見えないけれども、それで半ば、察しはついた。
――いや、だが、どういうことなのかは結局わからない。トシュはわんわんとうるさい幻の騒音に邪魔されながら、自分に起こっていることを見極めようとした。何か――何かが――。
「呼ばれてる」
口にした。何かが、誰かが、強烈に、自分を呼んでいる。
心当たりは何もなかった。ただ、どこから――どちらの方向から、どのくらいの距離から、その声ならぬ声が刺すように飛んできているかは感じられた。
「俺が飛んでったらついてこれるか?」
「遠いの?」
一瞬、ジョイドは怯むような間を置いた。
「……目印持っといてほしいな」
トシュが黙って手を突き出すと、ジョイドは自分の髪を一本引き抜いてその手に載せ、トシュが指を折って握り込むのを待ってから放した。息を吹きかければ、髪は飾り紐に変わってトシュの手首に絡みつく。
「東の方だ。帝国までは行かない」
「了解」
その返事を聞いてから、トシュは待ち兼ねたかのように空高く飛び上がり、足元に起こした雲を踏み締めて、呼び続ける何かの方へと勢いよく飛び出した。
たちまちに今日来た道を過ぎ、〈幸いを積み上げた山〉を過ぎ、程なく一ヶ月前にジョイドと解散した町を過ぎた。大方は町のような、だが南に流れる河の付近には昔ながらの村里らしさを残している、以前立ち寄った里が見えてきたところで、少しばかり速度を落とす。あの里だ。
〈高寄と高義と高臥の里〉。
一旦、姿を消した。〈雲の手前の里〉と違って、トシュが方士であることをわかっている住人は限られる。雲に乗って飛んでいるのを見られれば騒ぎになりかねない。
この里で自分を呼び出しそうなのは、その限られた人間ぐらいではないか、と思った頃には、その家の上に到達していた。
大きな家、というよりも邸である。表はこちらも広さのある店になっていて、前にも来たから知っているのだが、代々続くという薬屋なのだった。庭には何棟かの蔵と、蔵よりは出し入れが頻繁なのかもしれない倉庫とがあって、呼び声ならぬ呼び声はその倉庫のうちの一つから響いていた。
一秒ばかり迷ってから、トシュは直接、その倉庫の前に飛び下りた。同時に姿を現したのは深く考えてのことではなく、誰かにみつかっても構わない程度のことを思ったにすぎなかった。
だから、思いがけない人数が遠巻きに倉庫を見守っていて、トシュの出現にざわっと動揺したことに、自分が仕掛けたようなものなのに驚いてしまった。周囲こそがいきなり出現したかのような勢いで振り返ったトシュを、初めてトシュと見分けたのは壮年の男性であった。店の番頭だっただろうか。
「方士どの。方士どのでは」
それではっとしたらしい店主夫妻をトシュもみつけて、そちらへずかずかと歩み寄る。向こうからも近づいてきた、店主はまだしもその妻は、駆け寄らんばかり、縋りつかんばかりであった。
「トシュどの、助けてください。セディカが、あの子が、化け物にあそこへ引きずり込まれて」
「化け物だって?」
「旋風と一緒に飛び込んできたんです。ついさっき、また旋風が出ていったんですが」
店主が言って、倉庫に視線を向ける。妻が頭を左右に振った。
「開けられなくて……呼んでも、返事がなくて」
店主の視線を追って、トシュは倉庫の扉を睨みつけた。閂と錠前が出入りを阻んでいる上に、鍵穴が銅を溶かし入れたように塞がっている。
鍵そのものはあるのかと問えば、店員なのか使用人なのか両方を兼ねているのかはよく知らないが、番頭とは別の男性が現物を差し出した。トシュは鍵を受け取ると、自分の肩からは針を――正確には、針に変えて服に刺してある、愛用の鉄棒を抜き取った。
その針、もとい鉄棒を菜箸ほどの大きさにして、扉に歩み寄り、鍵穴を埋めている銅を一打ちする。銅はたちまち乾いた土に変わり、ぼろぼろと崩れ落ちた。
同時に、あの喧しい呼び声がやんだ。
トシュは鍵を使って、錠前を外し、閂を外した。扉を開ければ、明かり取りの窓があるとはいえ、外を見慣れた目に中は暗く――だが、トシュには問題なく、捉えられた。
「セダ。お姫さん」
呼びかける。
「自分で出てこれるか」
応えて、隅の方で一つの姿が立ち上がった。こちらへと踏み出した様子を見れば、足取りが覚束ないということもなかったし、怪我をしているようでもなかった。駆け寄るでもなかったが、足早ではあった。
十三歳の――とは見て取れたわけではなく、単に知っていたのだが――オレンジ色のバンダナを被った、少女。
「……トシュ」
「呼んだのはおまえか?」
軽く目を瞠ってから、頷く。本当に呼べたのか、というような、心当たりがありながら驚くような具合だった。
身を引いて、場所を空ける。不意に気後れしたようにおずおずと歩み出た少女が、倉庫の外にその姿を現した途端、店主の妻が走ってきた。
「セディカ!」
「従伯母様」
差し伸べられた腕の中に、少女は飛び込んだ。
セディカは薬屋の店主の従姪であった。セディカの亡き母親が、店主の従妹に当たるのだという。
マオやスーラに比べれば、よく知っているとは言いがたい。父親に捨てられて窮していたのを、この薬屋まで送り届けたことがあるだけだ。母方の祖父の出身地であると聞いていたものの、当の祖父はここにはおらず、祖母もおらず、伯父や叔母もいなかった。が、従伯父とその妻という遠縁ながら、子供のいない店主夫妻が快く少女を迎え入れたので、トシュとジョイドは安心して自分たちの旅に戻ったのである。マオやスーラと違って、非常に真っ当な別れ方だった。
それが今や虐待されていて、懲罰として倉庫に閉じ込められていた、というようなことではなかったのは、よかったが。
「とりあえず、これでこの部屋にそいつは入ってこねえはずだ」
部屋の四隅と扉に護符を貼りつけて、トシュは一般人たちを振り返った。
邸の中の一室に、少女と店主夫妻と、スーラと同じほどか少し若い――いや、素直にトシュと比べればよいのだが、とにかく、若い女性がもう一人、同席していた。女性二人が少女の左右に寄り添って、親代わりとはいえ日の浅い店主は、トシュと並んでテーブルのこちら側にいる。
他の人間にも害が及ばないかと店主が心配するので、もう一組、五枚の護符を番頭に渡し、使い方を説明して後を任せた。そちらはそちらで広い部屋にでも集まって、これで脅威の侵入を防げばよいはずだ。相手が何者だかわからなくても十分な効果が見込める護符を、一気に十枚も使ってしまうのは正直に言って痛手だが、仕方ない。
「そいつが戻ってくる前に、話せるか? 何があったか」
トシュは少女に問いかけた。
少女は自分を抱くようにして、しばし、沈黙した。言おう、言おうと自分を励ましているのは伝わってくるから、それをして沈黙と称するのは酷かもしれないけれど。急かすわけにもいくまいが、とはいえ、事情を把握できないうちに、その化け物とやらが戻ってきても困る。
努力の末に、少女は震え声を絞り出した。
「……あの人……死ぬんだって」
思いがけない言葉に、息を呑んだのは誰だったろう。
「病気で……妖怪だけど……妖怪だから、もっとずっと長く生きられるつもりでいて……いたのに……もうすぐ、死ぬんだって」
昨日の今日でこんな話を聞くのか、と眉を顰める余裕があったのは一瞬だった。
「わ、わたしを食べれば、治るんだって」
「食べ」
少女の隣りの若い女性が、思わずといった様子で声を上げた。
流石にこれは想像もしておらず、トシュも唖然としてしまった。食べれば、治る――この少女を?
「……そういうのは、修行を積んだ高僧とかだろうに」
そういう話は、ないではない。特別な人間を食べることで、不老長寿や不死を得るだとか、その能力を取り込むだとか。が、この少女にそのような効能があるとは――知り尽くしてはいない相手だから断定はできないにせよ、まず、とても、考えられない。
何故、そう――思われた?
「それで、ずっと……でも、あの、無理だって……できないって……泣いてて……でも、し、死にたくないんだって……わたしを食べるくらいなら喜んで自分が死ぬ、っていうことじゃないんだって……何度も、思い切ろうとして、思い留まって……」
葛藤の末に飛び出していった、らしい。が、閂と錠前で扉を閉ざしていったことを考えれば、これきり戻ってこないと安心するわけにもいくまい。
ふん、とトシュは腕を組んだ。妖怪であれば――人間を食べることは、必ずしも道義に悖ることではないはずだ。そんなことはできないと泣いていたのなら、妖怪といっても人里で暮らしていた者なのかもしれない。人間を食べること自体ではなく、「隣人を」食べることを厭う妖怪は、割合に多い。
この少女を食べようとした以上、敵にはなるだろうが。……悪であるとは、言えない。
事によると長引くかもしれない、という予感が脳裏を掠めた。単に人間を食べたいというのではなく、十代の少女が好みだということでもなく、他ならぬセディカが特別な存在に思われたから、普段は食べないものを強いて食べようとした、というのであれば――同じ理由でセディカを狙い、執着する妖怪が、今後また現れるかもしれないからだ。根本的な原因を突き止めて断ってやらなければ、ひょっとしたら片づかないかもしれない。
「……とりあえず、俺がおまえに化けてあの倉庫にいとくわ。やつが戻ってくれば問い質してやれるし、戻る気配がないならそのとき考える」
じきにジョイドも追いつくはずだ、と教えたそばから、店の前にジョイドが降り立ったことをトシュは感じ取った。店員や使用人も避難しているなら自分が迎えに出なくてはならないか、と幾分面倒には思いながら、ジョイドにしたように片手を差し伸べる。
「髪を一本貰えるか。その方が化けやすい」
少女は訊き返しもせずに髪を抜いて差し出し、青年は覚えず、微笑した。話が早くて、助かる。
トシュと入れ代わりにやってきたジョイドに同じことを説明したときには、セディカはもう少し落ち着いて話すことができた。妖怪のことならトシュとジョイドが何とかしてくれる、と力強く感じられるのはありがたいことである。明るい場所に出てこられただけでも、悪夢から覚めたような心持ちにはなるけれども、それだけで恐怖が跡形もなく消え去るわけではない。
無論、今だって、消え去ったわけではない。――あたしは死ぬんだ、と囁いた女性が、頭から離れない。
痩せさらばえて、目が落ち窪んで、もう幽霊になっているかのような――とはいえ、それは病気のためであって、あの女性が本質的に邪悪であるとか、危険であるとかいうサインではなかったわけだから、そこに怯えるのも不当ではある。連れ去られて、閉じ込められて、食べると宣言されたことには、怯えても赦されるだろうけれど。
セディカはゆっくりと深呼吸をした。
〈高寄と高義と高臥の里〉が町らしく発展し始めた頃から続いているという薬屋の、店主夫妻の事実上の養女であるセディカが、そうなったのはほんの三ヶ月ばかり前のことであった。父に捨てられたのはそのもう少し前だった。母が死んだのは五年前だったが、セディカは今も母を慕っていたし、父は今も母を蔑んでいた。片親育ちだった母との結婚を他人から強制されるはずもない、父自身が積極的に望んだからこそ二人は夫婦になっていたに違いないのが、セディカの知る父は何かにつけて母を罵ったり怒鳴ったりしていて、愛している素振りどころか、好意を寄せている様子、肯定的に捉えている気配すら、ついぞ娘に見せることはなかった。
母の死から五年が経って、ついに自分自身が捨てられたときには、遠方の町に置き去りにされた程度でどうしようもなくなるほど、セディカは幼くはなかった。そのためか、置き去りにされたのは山奥であって――セディカには、どうしようもなかった。
そこを助けてくれたのがトシュとジョイドだったのだ。それだからセディカは二人を非常に頼もしく思っていたし、こうして目の前にすれば心強さは格段なのだった。あの護符は本当に効くのだろうか、妖怪だというあの女性にうっかり敗れることはなかろうか、といった疑いや不安は差し挟む余地もない。もう無責任に安心しきってよいはずなのだ。二人がいるのだからと、傲慢なほど無邪気にくつろげておかしくないところ、なのだ。
「よほどのことがなければ、トシュが対応できますから。大丈夫ですよ」
ジョイドが従伯母たちを力づけた。
同じ部屋には従伯父と従伯母と、薬屋の店員として働いている再従姉もいた。再従姉は従伯父の娘ではなく、従伯父の姪でもなく、従伯父の従姉の娘に当たるということだったが、薬屋の後継ぎとしてこの家で一緒に暮らしている。言うなれば、三人は――セディカの家族、だった。父のような、母のような、姉のような。
もう大丈夫、とはセディカは言われるまでもないけれど。トシュとジョイドに自分自身が救われたわけではない三人は、その姿を目にしただけで安心しきるというわけにはいかないだろう。……三人は。
「何が怖い、セディ?」
青年の声がして、セディカは目を上げた。
叱責ではない、いたわりである。問いかけたというより、促したのかもしれない。もう後ろ向きな表情を見せる謂れはないはずだ、と非難されたのではない。……ジョイドばかりではない、誰もそんなことは言わない。
一度上げた目を、けれども、伏せる。いや、だからこそ――だ。胸と喉とを塞ぐ、恐怖とも悲しみとも哀れみともつかぬ――否、やはり、恐怖。
「あたしが……食べられてあげないから、死ぬの……?」
「何を言うの」
戦慄く唇で呟けば、仰天した従伯母が半ば叫ぶようにした。
「そんな気持ちにさせるんだから狡いよねえ」
ジョイドの方は苦笑したらしい。
「君の家が重税をかけたせいで薬が買えなくて悪化したとか、薬の値段を吊り上げたせいで買えなくなったっていうことなら、無関係とも言えないけど。そんな理由があるならそう言っただろうし」
恨みがあるならぶつけただろう、とは賛同できる推測だった。セディカ自身に起因することではなくて、結局は不当な転嫁であったとしても。
「君が責任を感じることじゃないのよ」
優しく、青年は続けた。言われなければわからないか、と咎める響きは一切なかった。
……無論、そう言ってくれるだろう。ここにいるのは誰も彼も、あの女性よりセディカの味方だ。
セディカさえ折れれば、我を張らなければ、自己中心的な考えを捨てれば、あの女性は助かるのにと――言わないのは、だが、味方だからというだけではないのか? セディカが自分可愛さに自分に都合のよいことを言うように、周りもセディカ可愛さにセディカに都合のよいことを言っているだけ――ではない、と、どうして言えよう?
あんたを食べれば治るかもしれないんだ。
もう他にないんだ。やれることはやってきたんだ。生きたいなら、本当に生きたいんなら、試しもせずに投げちゃいけないんだよ。
泣きながら訴えたあの女性に、味方は――いたのだろうか?
「あの人は……生きていたいだけなのに」
セディカは呟いた。
自分だって、死にたくなかった。一人ぼっちの山の中で。
今だって、死にたくはない。食べられてやりたくはない。他人を生かすために、自分が死にたくはない。
……他人を生かすために、自分が死にたくはない――のは、あの女性とて、同じではないのか……?
「セディカ。自分を軽く扱わないで」
従伯母がセディカの手を握り締めた。
「あなたは酷い目に遭ったのよ。世界中があの人に同情したとしても、あなただけはあの人を一生糾弾し続けていいような目に遭ったのよ。それをなかったことにしないで」
恨むようにと諭されるのか、と――おかしく感じる余裕は、なかった。
「……ごめんなさい。心配してくれてるのに」
被害者が加害者を擁護していては、被害者を案じていた方は裏切られた気持ちにもなるだろう。
「薬屋として、間違っているとも言えないが」
従伯父が困った顔をする。
「僕らが心配するかどうかは二の次だ。自分を大事にしなさい」
「……はい」
「助けたいの? あの人を」
再従姉が問うた。
「だって、あたし」
セディカは空いている方の手を拳にした。
「運がいいだけで、生きてるのに」
トシュとジョイドに拾われたのも、従伯父夫妻に受け入れられたのも。運がよかっただけのことだ。何かよいことをした褒美、適切なことをした報酬ではない。そんな理由で助かるものなら――。
母は死ななかった。
生きるに値する者が生きられるものなら、母は――死ななかった。
母は――見も知らぬ子供を食べれば治るものであったら、……生きるために、食べただろうか?
「……セディカ」
「俺らが君を助けたのは、借金を負わせるためじゃなかったんだけどなあ」
途方に暮れたような従伯母に対して、ジョイドは慣れた風だった。付き合いの長さで言えばジョイドの方が短いけれども、……この家で暮らし始めてから今日になるまで、こんな風に追いつめられるような出来事もなかったし、ゆえに従伯母の前でこうした姿を見せることもなかったのだから。
ジョイドはもう少し続けるつもりだったかもしれないが、ふと意識をよそへ向けたらしい。そうと気づいて、何かあっただろうかと見上げたとき、視線がこちらに戻ってくる。
「来るみたいだ」
セディカよりも従伯母がはっとして、両腕でセディカを抱き締めた。
予告の通り、外でごおっと風が呻りを上げた。あの風が店先に出ていたセディカを吹き上げて、否、あの中にいた女性がセディカをひっつかんで、屋根より高く飛び上がったと思うや倉庫に吹き込んだのだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。こんなに、守られているのだから。
静かになった。
セディカは息を殺して待った。セディカに成り済ましたトシュが、あの女性と対峙しているはずだ。まさかいきなり噛みつかれて食い殺されたり、飛び込むと同時に肉切り包丁を突き立てられたりはしていないだろう。そんな心配はしていない。していないが。
不意に激しい物音がして、ごおっと再び風が轟く。逃げ出した、のだろうか。叫び声もしたようだった。これはトシュが、待て、と叫んだのか。
その後で廊下を走ってきたのは、ついどきりとしてしまったが、無論、トシュに違いなかった。いや、トシュであったとて、こんな風に走ってくるとは何事かと思って当たり前だろう。
ドンドン、と扉が拳に揺れた。
「ジョイド、追え!」
余裕も何もない声が怒鳴った。
「マオだ!!」