外へ出るとトシュはバンダナを外した。近づいてくるのは敵意ではない。危険はあるまい。すっかり(おび)えきっている少女の方が心配だ。本人に自覚はないかもしれないが。

 やがて現れたのは三人連れであった。

 中央が無論、首領、である。高位の武官のような、しかし武官にしては華美な、錦の衣服に身を包んでいる。衣服に呑まれぬ堂々たる風格であったが、(ひげ)面だけは将軍というより、山賊の首領にでも(たと)える方が似つかわしい。

 一歩引いてその後ろにいる二人は、首領に比べれば随分と地味だ。向かって右は隠者のような粗末な衣でフードを被り、向かって左は学生の、勉強中の身分であることを示す簡素な制服を着ていた。とはいえどちらも、(きら)びやかな首領と並んでも見劣りした印象はない。事実、二人は別に部下ではなく、首領と対等に付き合う友だ。

「よう。虎どの熊どの野牛どの」

 トシュは自分から呼びかけた。

「狼の小(せがれ)ではないか」

 首領はにやりとした。人の姿を取っているが、その正体は年経た虎である。

 この〈連なる五つの山〉を、トシュは以前も通ったことがある。この三人とも面識があり、何なら一言、挨拶ぐらいはしていくつもりでいた。セディカを拾ってしまったので、どうしたものかと迷っていたのだが。

「暴れたことは詫びるが、あいつらが聞く耳持たなかったことはわかってほしいね。俺は穏便に話し合おうとしたんだ」

「そのようだ。蛇とはな」

「あんたの子分は俺の連れに手を出しやがったんだよ」

 顔を(しか)める。

「まっさかこんな熱い歓迎を受けるとは思わなかったぜ」

「我らがけしかけたのではないよ。松の老爺の話を聞いて、一肌脱いでやろうと張り切ったらしい」

 隠者――熊が言った。ということは、あの獣たちも言葉は通じるわけだ。となればやはり、聞こうとしなかった向こうが悪い。

 セディカには木の妖怪が特別であるような言い方をしたが、鳥獣虫魚の妖怪も、強大な力を持つ者は周囲に影響を与えうる。といってもその度合いは段違いなので、素人への説明としてはあれで問題ないのだが、この三人は正にそれだけの力を有する大物だった。一人でなく三人も、今ここにいるというだけでなく長年に渡って()み着いていれば、通り過ぎるだけの旅人でなく同じ山に暮らしている獣や鳥は、その影響が積もり積もって変化を遂げていても何らおかしくないのだ。通常よりも簡単に妖怪と化したり、化けぬまでも口を()くようになったり、口は利けずともこちらの言葉を解するようになったり。

「あの爺さんが何を言ったって?」

「詩会に殴り込んで暴力を振るったそうではないか」

「大した要約だな」

 その部分に嘘はない。

「人間の小娘を連れ込んで妖気漬けにしたとは言ってたか?」

「人間の娘が訪ねてきたから仲間に入れたとは言っていたね」

「訪ねてなんざくるかよ、あんな子供が」

 これには吐き捨てた。都合よく解釈してんじゃねえよ。

「あいつらは詩のことしか頭にないのかもしれねえが、あんたらにわからんとは言わせねえぞ。化けた木が群がってる場所に迷い込んだ子供を捕まえて、ナマの妖気にどっぷり漬け込んでおくなんざ、人の姿をしてるやつの所業とは思えねえな」

 正真正銘の人間がその子供を山中に放置したことは棚に上げた。

 一般に、妖怪は妖怪であることを誇っていて、動物が妖怪になることを進化と(とら)える。山の獣が妖怪に近づくことは、トシュも問題視していない。

 が、動物でなく人間となると話は別だ。妖怪から見れば、人間は動物よりも――繊細、なのである。端的に言えば、妖怪に触れすぎ妖気を浴びすぎれば、死ぬ可能性の方が圧倒的に高い。蜻蛉(かげろう)よりも繊細だと言われれば人間は不満かもしれないが、蜻蛉が本来の倍の体()と十倍の寿命を得て生まれ変わる横で、人間はただただ当てられて衰弱していくのだから勝負にならない。羽も毛皮も(うろこ)も甲羅も持たない、裸の生命。

 なお、妖怪と接することで妖怪でないものが(こうむ)る影響を、「妖気」という単語を用いて表すのは不正確、というより不十分なのだが、妖怪の間ではそれで通じるはずだった。あの木の精たちは別として。

「松どのの言い分とは食い違うが」

「だが、(あんず)()(りょう)の言い分とは合うぞ」

 髭を()でる虎に、熊が指摘した。

「食べ物をやったと言っていたじゃないか。それはまずいのじゃないかとは思ったんだ」

「それもあったな。あいつが飲み食いしなかったからよかったようなものの」

 あの場にいた全員の正体を見抜けているわけではないが、椀や皿を渡してきた青い衣の女性が、つまり杏の化身だったわけだろうか。

 四分の三は妖怪であるところのトシュとジョイドも、セディカに食事を与えるに当たっては、昨夜も今朝も気をつけた。といっても、妖気を――人間への影響を抑えた、などと言い立てるのすら馬鹿馬鹿しいことだ。服を着る程度の手間でしかない。

 ともあれ、妖怪となった木々が根を張っている場所での食事という意味でも、妖怪と共に()る食事という意味でも、(もてな)しどころか正反対もよいところの所業であったと、少なくともこの熊は理解しているようだ。幾らか安心した矢先、

「その娘が取り込まれたとて、おまえに何の関わりがある」

 野牛が初めて口を挟んだ。

「俺が関係してるかどうかで、あいつが人生潰されていいかどうかが変わるのか?」

 青年はドスの利いた声を出した。

 関わりなどあるものか。自分だけではない、この山にいる誰一人として、あの少女に関わりはない。少女を危険に(さら)した方は松だの杏だの二十本近くもいた上に、その泣き言を聞いて動いてくれる猛獣が十頭ばかりと、その猛獣に泣き言を聞く能力を与えたほどの大妖怪が三人もついているのに。

「言っておく。この山に――〈連なる五つの山〉にいる間、あいつは俺が守る。傷一つでもつけやがったらただじゃおかねえ」

 気迫に押されて、野牛はたじろいだ。トシュは据わった目を虎に戻した。

「これなら口出ししてもいいな? 〈慈愛天女〉のしもべを()めんなよ」

 それは勇み足であったかもしれない。関係がないのだから引っ込んでいろと(あお)ったのではなくて、野牛は実際に不思議そうにしていたのだから。

 虎と熊はというと、少々おもしろそうにしていた。

「そこまで言うのであれば、そなたの――そうさな、妹であるとでも思おう。妹の危難を見過ごせぬのは兄として当然だな」

「……その辺だ」

 妥当な解釈に、ここは引くことにする。過剰に反応してしまったとは思った。昨夜木の精たちを叱りつけたときは、あまりにも話が通じなかったので。

「妹の危難を救っただけのことだと申すのであれば、これ以上この山の平和を乱しはすまいな」

「約束はできねえな。あの枯れ木どもが別の娘を捕まえるようならまた殴り込むぜ」

「〈慈愛天女〉のしもべにしては随分と過激だ」

 熊がフードの陰で笑いを噛み殺す一方、虎はからからと豪快に笑った。

「よかろう。獣たちにはおまえたちを襲わぬよう命じておく。松どのにも言って聞かせよう。人間と関わるのであれば、こちらが気を配ってやらねばならぬとな」

「助かる」

 ほっと息が()かれて、トシュは素直に礼を言った。虎だろうと大蛇だろうと何度襲われても追い払う自信はあったが、流石(さすが)に楽々とはいかないだろう。松の老人を始めとするあの木々が、今後もいつ迷い込んだ旅人を無自覚に死地に引き込むか知れたものではない、とわかっていながら無策に去ることにも抵抗があったのだ。

 野牛はどうにも呑み込めないようではあったが、敢えて異を唱えようとはしなかった。

「あの爺さんが一番古株なのか?」

「ああ。松どのを中心に段々と増えた」

「じゃ、意見できるのはあんたらぐらいしかいないんだな」

 がつんと言ってやってくれ、と冗談めかして青年は託した。

「あのお嬢さんはさっさと外に連れてくわ。いつまでも火種にうろつかれてちゃ、気を遣う方も落ち着かねえだろ」

 セディカが聞けば自分が悪いのかとむくれるかもしれないが、煙草と酒の臭いが充満する()()は幼児のいてよい場所ではないのだ。速やかに連れ出すに限る。

 虎は最後に軽い調子で付け加えた。

「親父どのに、また酒を()み交わしたいと伝えてくれ」

「まず会わねえんだけどな」

 これには苦笑いで答えざるをえなかった。

 結局のところ、この三人がまともに取り合ってくれるのは、かつて父と親しくしていたからだ。顔を見せなくなって久しい友の息子でなかったら、果たしてどうだったか。

 妖怪としての父を、トシュはよく知らない。

 一番知っているのは人間としての、母の夫としてトシュの父親として、人前に現すための姿だ。二番目は、狼としての――母に付き従い、母に箔をつけるための姿だ。母に向けられるまなざしを、猿の子供への侮蔑から、荒れ狂う狼を屈服させ、従属させた女傑への尊敬と畏怖に変えた。

 妖怪と交わり、妖怪として振る舞っていたのは、母を見()めるより前のことである。息子の自分が知るわけがない。その息子も十分成長したからと人里をとっくに離れているから、今は再び妖怪として過ごしているとしても、やはり知るわけがない。

 ただ、妖怪の間では有名なようで、こうして時々、助けられるのだ。交流のあった者にも面識があったにすぎない者にも、時には評判を聞いているだけの者にも、敵にも味方にも一目置かれている、偉大――な、父に。

 三人を見送ったトシュは、バンダナを巻き直して(きびす)を返し――五歩目でダン! と地面を蹴って宙高く跳んだ。

 ほんの一瞬遅れて、地面を突き破って先の(とが)った木が伸び上がる。トシュは木の枝に降りるのを避けて、足元に雲を起こして乗ると、地上からこちらを睨みつけている老人を見下ろした。

「気が早いぜ、爺さん。虎どのが見てたらどうすんだ」

「使えんやつだ」

「おいおい。虎どのはおまえの詩が好きなんだろうに」

 そう言ったのは当て推量にすぎない。あの虎も詩作を愛しているから、同好の士として親しくしているのだろうと推測しただけだ。

 いつから(ひそ)んでいたのかまでは気をつけていなかったからわからないが、トシュが虎の爪で引き裂かれることでも期待して見に来たのだろうか。

「あんた一人か。仲間を誘えてねえってことは、褒められたことじゃねえって自覚はあるんだな」

 昨夜は憤怒に任せて怒鳴りつけて終わった相手に、余裕ある態度に戻って対応してみせるのも(おも)()ゆくはあったが、あのときは第三者の目がなかったのである。今ここで爆発するわけにはいかない。首領虎がああ請け合ってくれたから、実際、余裕はあることだし。

「わしらが気に食わんのであれば、黙って避ければよかろうものを。己の好みに合わぬからとて首を突っ込んで斬って回るとは、とんだ正義もあったもの」

「気に食う食わんのレベルじゃないことをやらかしてんだと再三言っとろうが。盗み聞きしてたんじゃねえのかよ」

 虎たちの前でも力説したはずだが。

「ちょうどいい、おまえの仲間がいないから遠慮なく言うぞ。他のやつは知らんが、おまえは意識的にあいつを引き留めようとしてたろ」

 意図したわけではなかったが、自分の耳に届いた声は厳しかった。

 自分たちが乗り込む前はどうだったにせよ、自分たちに対しては、(せっ)(かく)の新入りを連れ去らないかと警戒するように目を光らせていたのだ。まさか詩の話を棒術の演武で邪魔されたから睨んでいたわけではあるまい。

「最初の一本だったってんなら、仲間が増えるのはそりゃ楽しいだろうがな。それとも、人間が仲間に入れば自分らの格が上がるとでも思ったか? 適当に死なせて肥料にする気だったわけじゃねえだろ?」

「無礼にも程があるぞ、小僧。思い込みで物を言うのもいい加減にせんか」

 どん、と老人が杖で地面を鳴らす。中傷だと心から憤っているにせよ、図星を指されたゆえの()()()しにせよ、非を認めるつもりがないことはよくわかる。危険なことだとは知らなかったのだからと、百歩譲ってその点は目を(つむ)ったとしても、教わった上でこうなのだから始末が悪い。

「おまえらがしでかしたことを思えば妥当な推測なんだよ。……何も、あいつの周りに茨を繁らせたのもおまえだろうとは言ってねえぞ」

 ふと浮かんだ仮定が外れていることは、何を言っているのかわからないと雄弁に語る表情でわかった。父親や従者でなくあの木々の策略であって、茨で囲んであの(うたげ)の場に誘導したのだったら、と思ったのだけれど。……そう何もかもがたった一人の悪役に集中してくれるわけでもないか。

「わけのわからんことを言いおって」

 老人の非難は今回は(もっと)もなものだったが、無視する。

「なあ、爺さんよ。俺は正義と平和のために、おまえらを一本残らず根(こそ)ぎにしてやってもいいんだぜ。おまえも杏も(ひのき)も、楓も(ろう)(ばい)も」

 全てを見通しているかのような口振りで、正体を見抜けた、または聞いたものだけを並べ立てた。どのみちはったりだ、〈慈愛天女〉のしもべなどと豪語した身でそんな真似はできない――と言えば、殴るのはよいのかとジョイドにからかわれるかもしれないが。

「見逃してやるのはここが虎どののシマだからさ。虎どのに感謝するんだな」

 ちらりと斜め下を振り返った。まだ遠くへは去っていなかったあの三人が、足を止めてこちらを見上げている。

 聞かれていると知りつつ黙っていたことを、不公平だろうかと気にするほど殊勝ではないが。長引かせるのは、意地が悪いだろう。

「さっさと仲間のところに帰れ」

 手を振ったのは、後は任せたという首領への合図でもあった。

「文字通り人間の言葉が通じるってだけでもこの際ありがたいや。……あ、ここにいていいかな?」

「……うん」

 ジョイドはセディカのそばまで来て、許可を得てから座り込んだ。妖怪なのだ、と思うと掌が汗ばむようではあるけれど、昨夜あの集まりから、先ほど猛獣の前から、逃してくれたときのことを努めて考えるようにする。

「首領って……知り合いなの? それとも、近くに来ればわかるものなの?」

「顔を合わせたことはあるのよ。前にもこの山は通ったことがあるから、そのときにね。俺はそれだけだけど、……トシュもそれだけだけど、トシュの父親がね、一時期友達付き合いをしてたっぽくて」

 だからこの山は安全に通れると思ってたんだけどねえ、とセディカに向けて話しながらも、ジョイドの目はトシュが出ていった戸に、もしくは覗き窓に注がれている。

「ここからでも聞こえるの?」

「うん」

 ジョイドは唇に人さし指を当て、セディカは口を(つぐ)んだ。聞こえるといっても、横で別の声が喋っていては聞き取りづらいだろう。

 それからしばらくセディカは落ち着かない時間を過ごしたが、危ないことにはなっていないようだ、とはジョイドを見ていれば察せられた。目を円くしたときにはどきりとしたけれども、その後は明るい顔になったから、何があったにせよ結果的には丸く収まったらしい。

 それからふと、セディカを見返る。

「あちらさんの顔ぐらい、ちょっと見ておく? 幾ら無事に片づきましたよって言われても、見えないところで全部終わられちゃうのはなんだろうし」

「……出て、いいのね?」

 首飾りを指さして確認してから、セディカはその外へ踏み出して、怖々ながらも窓から首領とやらの様子を窺った。髭面は山賊のようだけれども、着ている服は大分高位の武官のもので、木の精たちのものとは違い、色は派手だがデザインは正しい。後ろの二人は何だろう、従者にしては態度が大きいようだが。

「何しに、来たの。あの人たち」

 ジョイドの方で沈黙を破ったのだから、もう話しかけてもよいのだろう。

「昨日今日と暴れたから、流石に様子を見に来たみたいね。事情を話したらわかってくれたっぽいけど」

 大分ざっくりとジョイドは()い摘んだ。

 覗いていることを悟られそうな気がして、セディカは早々に頭を引っ込めた。輪の中に戻れとは()き立てられなかったが、再び元の位置に座す。

 それからトシュが戻ってくるまでにはもう少し間があった。一度外が騒がしくなりかけたように感じたけれど、ジョイドは眉を寄せたものの出ていこうとはしなかった。何か揉めたのかもしれないが、大事にはならなかったのだろう。

 済んだみたいね、とようやくジョイドが呟いた後で、ややあってトシュが戸を開けた。浮かない――というのでもないが、何か引っかかりがあるような顔をしていることに、内心困惑する。満足でも不満でも、憤怒でも危惧でもない、これは――どうしたのだろう。

「つけ直すんだね。バンダナ」

「うん?」

「いや、どうでもいいんだけど。今の俺らって多分、やることなすこと意味ありげに見えると思うのよ。首領さんの前じゃ失礼だと思ったの?」

「まあ、うん、それはそんなとこだ」

 ジョイドがそんなことを言ったのはセディカの視点に立ったつもりだろうが、セディカはそもそもトシュがバンダナを外していたことに気づいていなかったから、いらぬ混乱を招かれただけであった。

「……聞いてたか?」

「うん。お疲れ」

 相棒のねぎらいにも特に慰められぬ様子で、床の上に腰を下ろしたトシュは――頭を抱えた。

「な、何なの?」

「今になって照れくさくなってきた?」

「照れくさく……?」

「あー……」

 しばし(うめ)いてから、傾いた姿勢のまま視線をよこす。

「流れで、この山にいる間はおまえを守るっつう誓いを立てちまった」

「え?」

 予想外の告白にセディカは動揺した。

「誓い?」

「拡大解釈すんなよ? 表面的な意味以外に何の含みもねえからな」

()いて言えば、『おまえには関係ない』で手出しを禁じられた場合の予防線だね。あれを本気でやられると俺らは弱いから」

 なるほど、トシュともジョイドとも、セディカは何の関係もない。セディカ自身がずっと気にしているように。

「にしても本当に逆鱗なんだねえ」

「言うなよ。わかってるよ。(たん)()で立てるようなもんじゃねえんだよ、誓いなんて」

「……そんなに落ち込まなくても」

 セディカは呟いた。誓いと聞いて感動したり感激したり舞い上がったりしたわけではないけれど。というより、トシュがこのありさまだからそんな隙もなかったけれど。そんなにも、落ち込むというか、不本意そうにすることはないではないか。

「いや、やることは変わんねえし、どうせ守るなら誓っても同じなんだけどな」

 トシュが座り直して溜め息を()く。それをやめろって言ってんのよ、とジョイドが腰に手を当てた。

「まあ、プロポーズなら場所と台詞(せりふ)とムードを選びたかったみたいな話よね」

「〈誓約〉の意義を知らんやつの前でプロポーズに譬えんな」

「〈誓約〉の意義を知ってる俺が言ってんのよ。君が受けてるダメージはつまりそういうことでしょ」

 ぎろりとトシュはジョイドを睨んだが、口では言い返さなかった。言い返せなかった、のかもしれない。

「あ、セディ、もういいよ、その中にいなくても。こいつが話つけてくれたから、この山にいる間は大丈夫」

「あ……はい」

 首飾りを返せという意味でもあるだろうと、セディカは急いで立ち上がった。ジョイドが拾い上げた首飾りの紐は、するすると元の長さに縮まる。

「で、だからもうこの小屋の中にだっていなくていいんだけど。流石に俺も気を張ってたからなあ、もうちょっと休ませてもらおうかな」

「わたしは全然いいけど」

 急ぐ理由もないし、急がせられる立場でもない。

 (さっ)(そく)座って足を伸ばしたジョイドは、(たたず)んだままのセディカを見上げた。どうしたの、と目が問うていて、少女はしばし言葉を探してから、

「あの……ありがとう」

 諦めて、一番単純な形で謝意を口にした。

 純粋な感謝とも言えなかっただろう。また――だ。

「そんなの、こいつが失礼な態度取ったのでチャラよチャラ」

「誓いの中身には文句つけてねえだろ」

 (あご)をしゃくるジョイドに抗議してから、トシュは指を鳴らした。

「だったら、礼代わりに一曲()いてくれねえか」

「え?」

 ぽかんとして訊き返す。自分に向けられるにしてはあまりにも似合わない要望で、しばし本気で何のことかわからなかった。

「あ、いいね。破魔三味でしょ」

「……聴きたいんだったら弾くけど、……大丈夫なの?」

「別に妖怪を無条件で退治するわけじゃないよ」

 確かに、トシュは破魔三味に合わせて演武を披露したのだし、ジョイドもその横で手拍子を打っていた。

「〈四三二の獅子〉か、獅子じゃなくても……まあ、任せるわ。俺よりおまえの方が詳しいだろ」

 昨夜のように、トシュは髪の毛を三味と(ばち)に変えた。弦を調節しながら、守ると誓った発言を聞いたときよりも、よほどセディカはどぎまぎしていた。一度聴いて腕前を知った上で、所望されるとは思ってもみなかったので。

 続きは後だ、と言われたことは覚えていたけれど、では続きを話そうとそのことを持ち出す気にはなれなかった。本音を言えば、目を背けたかった。妖怪だから――何なのだ。頼もしい親切な二人組、でよいではないか。

 ベン、と鳴らした最初の音は緊張ゆえか少し外れて、出だしは安定しなかったものの、程なく立て直して先を続けることができた。満足そうに聴いているトシュも、穏やかに微笑んでいるジョイドも、恐れなければならない相手には、どうにも、見えなかった。

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