公民館じゃなくて、文化館か。

 入口の手前で、青葉は外壁に貼りついている正式名称へと目を走らせた。縁のない場所だし、これから縁を持つ予定もないから、うろ覚えだったというよりも、そもそも覚えるつもりがなかったのだったが。

 それにしては、記憶が刺激されるような。

「ああ、(ひな)人形展やってたとこか」

「あれも一緒に来たんだっけ?」

「吊るし雛のときでしょ」

「あ、そうだった。一緒に見たね」

 大量の吊るし雛をここで見たのだ。そのインパクトが強くて、その場にあったはずの他の雛人形はさっぱり思い出せないけれど。あのときも姉に誘われたのだったか、自分から付き合ってほしいと頼んだのだったか。

 中はクーラーがほどよく効いている。すたすたと階段へ向かう姉に続きながら、壁のポスターを通りすぎざまに振り返った。手工芸公募展、とある。手芸、ではなかった。こちらも間違えた。

「ティーセットのときもここだよ。上がって右の奥」

「姉ちゃんが強奪してきたやつな」

「あたしは褒めただけですぅ。褒めたら貰えるなんて思わないじゃん」

 青葉が言ったのは、例のフェルトのティーセットを一組、誕生日に姉が持ち帰ってきたということである。色違いで四組あったうち、白地にピンクの糸で模様を縫い取ったものを、一番気に入っていたようだからと贈呈されたらしい。押し入れから熊と(うさぎ)のぬいぐるみを引っ張り出して部屋の一画に並べ、その間にティーセットを配置して、姉はご満悦だったし、青葉も――嬉しかった。

「で、今日は何なの。俺まだ聞いてないんだけど」

「見てのお楽しみだってば。っていうかこのタイミングで訊くなよ」

「確かに」

 答えはもうそこにあるのだ。階段を上がったすぐ左、壁の一部を取り除いたような入り口の向こうが、雛人形展にも使っていた展示室だった。

 入った途端に、まずは江戸切子のグラスが目につく。最優秀賞と書いた札が添えてあって、なるほどそれらしいディスプレイだと感じた。壁際にも中ほどにも長机が並び、想像していた刺(しゅう)やパッチワーク以外にも、陶器や七宝焼きや革細工など、多岐に渡る作品が展示してあった。右手の壁のタペストリーを青葉は見上げたのだったが、

「あ、あれだ!」

 姉は最優秀賞作品を素通りして、正面の壁へ直行した。現金すぎると呆れながら追いかけて――。

 それを認めて、息を呑んだ。どれがそれかと問うまでもなかった。

 カラフルなフェルトの弦楽器が五台、透明のスタンドに寄りかかって、緩く弧を描いて並んでいたのだ。

「ど?」

「いや……すげえわ、これ」

 半ば呆然と瞠目した青葉は、それから破顔した。

「バイオリン二台あるし」

 左端の二台、濃い水色がバイオリンだ。縦に走る()(ばん)と緒止め板と、横に添えてある弓は、一台がレモン色、一台がピンクになっている。駒は薄茶で、その左右にはf字孔――読んで字の如くfの形をした穴が、レモン色の板と弓を持つ方はピンク、ピンクの板と弓を持つ方はレモン色の縫い取りで表現してあった。

 濃い青がビオラで、指板と緒止め板は白く、弓とf字孔は赤い。駒は濃い黄色だ。チェロは薄黄色に、板と弓は黄緑、駒とf字孔はオレンジ色をしている。コントラバスは薄緑をベースとしており、板と弓はバイオリンのそれよりも薄いピンク、駒とf字孔は反対に濃いピンクでできていた。

 細部を見ていくにつれて、(かえ)って笑みが消えた。(はた)からは普段の無表情に見えたかもしれないし、あるいは真剣みが見て取れたかもしれない。

「ちゃんと……バイオリンと、ビオラと、チェロと、コントラバスだ」

 バイオリン二台とビオラにだけ、肩当てが縫いつけてある。色はf字孔と同じ、ピンクとレモン色と赤だ。一方でチェロとコントラバスの下には、白く曇ったようなエンドピンが伸びていた。それに、白いビーズでできたペグが、コントラバスだけ、前後についている――他は勿論(もちろん)、左右にある。

 スマートフォンを取り出しかけて、撮影禁止のはずだと気づいて手を止める。(もっと)も、撮れたところで写真は写真だ。目の前の実物には敵わない。

「これは……誘ってくれてよかったわ、これは」

「ふふん、誘った甲斐がありますわ」

 口では礼を述べながら、頭を低くしてチェロのエンドピンを覗き込む。何でできているのだろう。

 見向きもされない姉は(むし)ろ満足げだったが、やがて歩き出したので、青葉も一度、フェルトの楽器から目を離した。全体も、見て回ろう。

 迷いなく近づいてくる足音に、姉と弟は同時に振り返った。折よく一周して楽器の前に戻ってきたところだった。

「あ! (はるか)

「ごめんね、お待たせ」

「ううん、見てたから」

 姉は部屋全体を示すように片手を回すと、最後に青葉を指して、弟、と簡潔極まりない紹介をした。青葉は無言で()(しゃく)する。こちらに向けては一言の紹介もなかったけれど、例の友人に違いなかった。話はよく聞くものの、本人と会うのは初めてだ。

「おばさんは?」

「暑いからやめておくって。それに、親と友達が一緒にいたんじゃ、わたしも気まずいんじゃないのって」

「あっは、言えてる」

 友人と弟は、あるいは友人と友人の弟は構わないのだろうか。

 青葉の方は、いずれにせよ、気まずい。というより、気後れがする。初対面の相手には昔からそうだ。姉が生まれるときに青葉の分の社交性も持っていってしまったのだ、とは家族の間で定番の冗談である。

(そら)が無理に付き合わせてない? ごめんね」

 空の友人は手を合わせて、どちらが身内なのかわからないことを言った。空の弟は逃げるように半ば目を伏せながら、軽く手を振って返事に代える。

「バイオリンやってるのよね。母が喜ぶわ、(せっ)(かく)だから楽器のわかる人に見てもらえたらなって言ってたの」

「バイオリン奏者の目から見てどう?」

「いや……その」

 追い打ちをかける姉を内心で呪いながら、青葉は弦楽五重奏を振り返った。期待はとても、わかる――演奏会の後だって、クラシック音楽に造詣のある聴き手の方が、そこを気に留めてくれたかと心が弾むような感想をくれるものだ。わかるだけ、プレッシャーが。

「すごいです、……バイオリンが、二台あって」

 最初に自分の口を()いた言葉を引っ張り出す。そうだ、理解した瞬間に――はっと胸が明るくなったのだった。

 期待を隠せていない目が嬉しそうに細くなった。

「第一バイオリンと第二バイオリンなの」

「わかりました」

 伝わるだろうか。だからこそ、感動したのだと。

 二台あること。一台ずつあること。レモン色とピンクを入れ替えることで、同じものであることと違うものであることが表現されていること。色は違っても同じ形をしているビオラと、並べてみれば区別がつくこと。

 人見知りに邪魔されなかったところで、上手く言い表せるとも思えなかった。良大なら的確で巧みな褒め言葉をみつけるのだろうし、力なら語彙よりも熱量で感激を示すのだろうに。

 もどかしさと諦めと、もう少し何か言わなくてはという焦りと共に見返って、気になっていたことを一つ思い出した。

「あの……これ、何ですか。エンドピン」

 見えるようにと数歩下がって、チェロを指さす。素材を尋ねているのだとこれで通じるだろうか、と懸念がよぎったものの、

「えっと、結束バンドだったかな」

 答えはあっさり返ってきた。教わってみれば、そう見える。

「そんなのも使うんですか」

「そうね、時々変わったものも――結束バンドぐらい普通かなあ」

 作者の娘は首をひねった。

「スパンコールも珍しくはないよね。フルートやピッコロに使ってたんだけど」

「フルートもあるんですか?」

 自分の声の大きさに驚く。フルートに、ピッコロ?

 姉が胸を張った。

「フルオーケストラあるんだよね」

「なんで姉ちゃんがドヤるの」

 くすくす笑いを噛み殺しながら、その友人は指を折る。

「フルート、ピッコロ、クラリネット、ファゴット、……何か飛ばしたな、あ、オーボエだ。――が、木管でしょ。金管が、トランペット、トロンボーン、チューバ、ホルンね。打楽器は全部あるとは言えないかもしれないけど、ティンパニとか、ドラムとシンバルとか、()()とか」

「銅鑼」

 何から驚いてよいかわからなくなって、青葉は最後の楽器を繰り返した。弦楽器の揃い踏みに衝撃を受けていたのに、もっと、あるのか。木管一揃いと、金管一揃いと、打楽器の花形と、銅鑼。

「一度全部並べてみたいねって言ってるんだけど。場所を取るから、なかなかね」

 姉の友人は愛おしげに母の作品たちを眺めた。

「でも、弦楽器だけでも出してみたらって勧めてよかったわ」

 ホントね、とは姉が言ったから、便乗して頷いた。姉の友人の母親では、遠い。こうでもしてくれなければ、写真ならまだしも実物を目の当たりにすることはなかっただろう。

 姉と友人はそれから二人で遊びに行くらしく、青葉は別れて帰宅した。そろそろ一人になりたかったし、オーケストラの練習の前にしばらく休んでおきたい。初対面の相手と喋ったにしては珍しく、疲れよりも興奮の余韻が勝っていたけれど。

 ペグのことを言えばよかった。

 コントラバスの先輩に目礼しながら、午前中のことをふっと後悔する。当然と言えば当然だろうけれども、同じ形のものを色違いで並べたわけではなく、コントラバスはコントラバスとして、チェロはチェロとして、作られていることにも感動したのだったのに。

「えーでもあたし()()と観に行ったよ? 普通に女子同士で行くんだから、男子同士で行ってもよくない?」

「そーだそーだ男女さべつ」

「別に一人で行ってもいいと思うけど」

「……てっめ」

「まだ解決してねえの?」

 同学年数人がわいわい話しているところに参入すれば、良大は唇を(とが)らせた。

「おまえが姉ちゃんとデートしてるからだろ」

「来週の午前なら空いてるけど。付き合うか?」

「……え、ガチ?」

 頷きで応じて、青葉はバイオリンケースを下ろす。

 調べてみるまで気づかなかったけれども、あの映画には良大の好きな女優が出演しているのだ。主演でも何でもない、()役で。それでもファンには十分嬉しいものだろうし、見逃すのは、悔しいだろう。

「来週だったら、土曜でいい?」

「おっけ」

「よっしゃ!」

「秒で終わった」

 両腕を振り上げる良大の横で力が苦笑している。

「だったらこの間誘われたときに言ってやれよ」

「一週間も引きずってるとは思わなかったんだよ」

 わかりやすく上機嫌になる友人に、こちらは微笑みとにやつきの合いの子のような顔つきになる。喜んでくれて何よりだ。

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