今日は曾祖父の命日だ。
それは同時に、ある人物の命日の代わりの日、でもある。
自分が生まれるより前に没しているから、ミザールに曾祖父の思い出はない。村に学校を創ったことで村の人々から今も敬愛されている、誇らしき祖先ではある。曾祖母共々、元はよその人間だったそうで、暖かく迎え入れてくれたこの村のために尽くしたという話だった。
移住前の二人がどこにいたか、何をしていたかを知るのは、子孫とその伴侶だけだ。有名な、悪名高いある娘が、曾祖父の仲間、曾祖母の友であったことも。
「――先生!」
村の共同墓地に赴き、曾祖父の墓前で物思いに耽ってから帰ってくると、見知った少女と見知らぬ青年が人待ち顔に佇んでいた。ミザールを認めて少女が手を振る。
「先生にお客様!」
高らかに報告する子供の後ろで、青年が挨拶めいた笑みを浮かべる。特徴的な形状の鞄から、竪琴弾きであろうことは容易に知れた。
「ミザールさんですか」
「ええ。あなたは?」
「アリオトといいます。メラクの孫弟子と言った方がいいかもしれません」
瞬きを一つ。
メラクという名に覚えはない。が、合い言葉のようにその名を提示されそうな人物といえば、心当たりはなくもない。
「ドゥーベに用がおありですか?」
曾祖父の名をミザールは返した。通じたことに安堵したか、アリオトの唇が今度は自然に綻んだ。
案内役を務めたらしい少女をありがとうねと褒めてから、自宅と隣接する学び舎の、一つだけの教室に客人を通した。曾祖父を追って訪れた相手には、自宅よりもこちらの方が相応しく思われたので。
「ドゥーベは魔術師で、でもその前に学者でした。ここは学校であると同時に研究所なんです」
書物を集めた図書室と、書物以外の品物を保管している資料室と、曾祖父の研究室と。教室の他に、それだけの部屋がある。村の人々の、特に子供たちの教育と、村のための研究と――個人的な研究のための、施設。
何組もの机と椅子が整列し、たった一組だけの机と椅子がそれを迎え撃つ光景は教会とも似通う。尤も教会ならば、子供たちが大勢集まったときでも、騒がしくなることはあまりないけれど。
「メラクという方のことは、実を言うと存じ上げないんですけれど。――魔姫の時代の方ですか?」
「ええ。……魔姫をご存知ですか」
「神の宝に手を出そうとして、聖姫に討たれたと」
「何故、そんな大それたことをしたのかは?」
「アリオトさんはどう思われます?」
質問に質問で返したのは、やはり少々恐れがあったためだ。相手の答えが――立ち位置が、先に欲しかった。
迷いの表情を束の間浮かべたところを見ると、それはアリオトも同じだったのだろう。訪ねてきたのは自分なのだからと、けれども思い直したらしい。
「それこそが魔姫の務めゆえ」
それも勿体をつけるように核心を避けていたけれど、答えを知っていれば通じる言い方ではあった。
「ご存知なのですね」
ミザールが訊き返さず、意味がわからないという顔もしなかったためだろう、返答を待たずともアリオトは確信したようだった。簡潔に、ミザールは頷いた。
長い長い歴史の中で、神の宝を狙う者は幾度か現れ、その誰もが結局は果たせずに退治された。百二十年に一度と、その間隔はほぼ一定している。身の程を知らぬその不届き者を魔姫、それを討った勇者を聖姫と呼ぶ――両者は共に女性であることが通例なので。
それが大がかりな芝居であることを、世間は知らない。正義が悪を降すということを体現することによって、あらゆる正義の勝利とあらゆる悪の滅びを祈るために、運命が仕組んだ儀式であることは知らない。聖姫が勇者となるべき宿命を負うように、魔姫は悪役となるべき宿命を負っているにすぎないことも。
ドゥーベは知っていた。魔姫の仲間として、理解者として、抗えぬ運命の中の慰めとして、寄り添った。そして、恐らく。
「わたしから話すのが筋ですね。――メラクは、魔姫の仲間でした」
勿論、そうだろうと思った。
メラクは吟遊詩人であったが、歌術――歌を用いた魔術の一種も扱った。その歌で以て傷を癒したり、追っ手を撒いたりして魔姫を助けた。この代の魔姫やその仲間の名や容姿が一般に知られていないのは、メラクが行く先々で、認識や記憶を制限する術歌を披露したためだという。名を聞いていないことを思い出さないように、聞いた名を覚えないように。顔をじっくり見ないように、髪の色が印象に残らないように。さてはあれは魔姫の一行であったかと後から気づいても、どのような人物であったかを言えないように。
メラクが作り、残した数々の詩歌には、その経歴が透けて見える。悲劇の少女、犠牲となった少女を題材としたものと、鎮魂歌とがほとんどを占めているのだ。事情を知っている身にはあからさまに感じられるほどだけれど、これらを聞いた者たちが真実を悟ることを望んだのかもしれない。歌の知名度の問題か、聖姫にも当て嵌まりうるためか、気づいた者に遭遇したことはないとのことだが。
子を持たなかったから、子孫はいない。が、詩人として、楽人としての弟子がいた。魔姫の仲間であった事実は、弟子から弟子へと密かに伝わった。秘密を継いだ一人であるアリオトは、魔姫やその仲間の足跡を辿り、またその周囲を巡っているのだった。
「我々のように彼女の話を伝え聞いている人がいるかを――どんなことを聞いているか、どう捉えているかを知りたくて」
動機をそう語る青年は、なるほど詩人らしかった。自分より母の方が期待に応えられそうなのにと、ミザールは幾分申し訳なく思う。学者たる曾祖父の気質を受け継ぎ、かつより行動的な母は、有用な話が聞けそうな相手をみつけて随分と遠方に出かけてしまったから、仮令呼び戻せたところで帰ってくるのは当分先だ。
「聞いている人は……そのことを話してくれる人は、います?」
「話を聞けたのは『残党狩りのアルカイド』が住んだ町ぐらいですね。ただ、その町では公然の秘密でしたよ。彼女がアルカイドであることと、魔姫に『何かしら事情があった』ことは」
魔姫の死後、魔姫一味の残党と称して悪事を働く者が出た。真実魔姫の仲間であった女剣士アルカイドは、これに怒って偽の残党を斬って回った。それはよく知られた後日譚である。アルカイドの名が例外的に知れているのは、そのとき既にメラクと別れていたからだろうか。尤も吟遊詩人によれば、それはその間だけ用いた、隠せないであろうことを見越した偽名であったらしい。
残党狩りの後は本名に返ってその町に落ち着いた。剣一本で町を守り、道場を開いて守り手を育てた剣士は好かれたようで、魔姫と組んで行動していた過去のことは問題にされなかった――どころか、落ち武者伝説めいた伝承となっていた。部外者に対して開けっ広げにしているわけではないものの、アリオトが同じく魔姫の仲間と縁の深い人物であることを知ると、あっさり明かしてくれたという。
「……ドゥーベは隠していたんですけど」
「それが多数派だと思いますよ」
青年は苦笑した。
「町の人々が無頓着なのか、アルカイドがよほど好かれていたのか」
「好かれたからって……」
「この人物が友としていた相手ならばと、拒絶反応が薄れることもあるでしょう」
それは、あるかもしれないが。信頼する人間に紹介された相手なら、初対面でも信用してかかるように。――相手が、悪名高き魔姫であっても?
曾祖父と随分異なるその後は、新鮮に感じるより前に戸惑いを呼んだ。性格の違いかもしれないし――環境の違いかもしれないと思えば、わからないでもなかったが。
メラクは友を想う歌を残した。アルカイドは友の印象を好転させた。
ドゥーベは何をしただろう。
そう思って、はっとする。
「すみません、話させてばかりで。アリオトさんが聞きにいらしたのに」
こちらが聞き入ってしまっていたことをミザールは詫びた。語ること自体が楽しみなのであろう吟遊詩人は、本題になかなか辿り着かないことを別段気にしてもいないようだったが。
「――ドゥーベはほとんど何も語らなかったんです。本当は一生口を噤んでいるつもりでいたかもしれません」
現に話を聞いているのに、そう思う理由は無論ある。
「メグレズのことは、ご存知です?」
「いえ」
青年は少し目を瞠ったようだった。知らなくても何ら不思議のない人物なので、娘は気にしないでくださいと示すように手を振った。魔姫の周辺に詳しい詩人は、ひょっとしたら把握しているかもしれないと思っただけで。
「メグレズは、曾祖母――ドゥーベの妻なんですが、魔姫が魔姫として目覚める以前に親友だった人でもあるんです。同じ人の友として、惹かれ合ったと」
華々しい決戦を演出した末に魔姫が倒れると、仲間たちはその亡骸を人知れず葬り、解散した。その後ドゥーベは魔姫の故郷へと赴き、その古い知人たちを訪ねたのである。
話に聞く限りでは、その村の人々は魔姫の正体を認識していたらしい。メグレズは親友の行いに胸を痛めていたようだから。この魔姫が名前不詳とされていることは、だとするといささか妙な気もするが、あるいは魔姫を輩出したことを恥じて、村ぐるみでその痕跡を抹消してしまったのだろうか。
ともあれ、メグレズは親友が秘宝を狙ったこと、ために聖姫に殺されたことを知っていた。そんなはずはない、そんな子じゃない、何故気づけなかったのだろう、何故止められなかったのだろう――悩み苦しむ曾祖母を見兼ねて、曾祖父は真実を告げたのだった。仲間であり友であった娘が、身の程知らずでも傲慢でもなかったこと。そういう役割だったのであり、その役割を立派に果たしたのであること。
「彼女のことをわたしたちに――祖父や母に教えたのはメグレズなんです。後世に伝えるつもりは、ドゥーベにはなかったかもしれない」
秘密主義は曾祖父に限らず、仲間たち全体の方針だったはずだ。名も容姿も隠し通した一団。……アルカイドの話を聞いて、少々自信がなくなったけれども。
魔姫に対する風当たりが強いのは、ドゥーベの故郷も同じことだったらしい。そうでもなければわざわざ移住などしなかっただろう。この村へ来てからのドゥーベは教育と研究に打ち込んで、神の宝の探究者の片鱗も見せようとしなかった。
「少し、神経質すぎるような気もしますけど」
「前々回の魔姫が、運命を恨んで殺戮に走りましたから」
その印象が当時は強かったのだろうとアリオトは言った。働かなくてもよい悪事を、自棄になったように積み重ねる魔姫もいるのだ。その前例を意識すれば、なるほど、身内に人殺しがいるようなものだったのかもしれない。強盗団に所属していたようなものだったのかもしれない。
真実を広く訴えるという冒険は、どのみちできなかっただろう。宿命というものを理解されず、あるいは以前の魔姫と混同されて、非難、糾弾を受けることになれば、曾祖父自身はまだしも曾祖母が耐えられなかっただろうから。その辺りが恐らくアルカイドとの違いである。
「でも、一方で……ドゥーベはもっと多くのことを託したかったのではないかとも思うんです。はっきりと言うことはできなくても」
正反対の想像だけれども、そう思う理由も、無論、ある。
「アリオトさん」
娘は青年と目を合わせた。
「ドゥーベが残したものを、ご覧になりますか?」
研究室の書棚には、資料として集めたのであろう多くの本と共に、帳面がこれも何十冊と並んでいる。黄ばんでも反ってもおらず、新品のようとは言わないまでも、長の年月を感じさせない。保存用の魔術でもかけてあるのだろう、魔術師としての特技を生かして。
「曾祖父が記したものです。普通に書いたものでは、ないようですが」
一冊を引き抜いて、開いて手渡す。文字こそ見慣れたものであるけれど、その並びは既知の単語を成しておらず、従って文章にもなっていない。全てでこそないものの、半分以上の帳面はこうだった。
異国の言葉である可能性もなくはないが、暗号と見るのが妥当であろう。こんな風にしてまで隠さなければいけないような、それでも研究を続けたような題材となると、魔姫に関わることであろうとミザールは推測していた。
が、魔姫を気にかけていたのはメグレズであって、ドゥーベはそうではなかったではないかという反論もある。口に出せない代わりに書き物に注ぎ込んだのかもしれないではないか、とこちらからも反論はできるものの、どちらにも決め手があるわけではない。暗号文書の正体も、実は単なる日記かもしれない――という言い分には頷きかねたが。
「内容がわからなければ、守ることも継ぐこともできないのに」
「それでも、残してあるんですね」
指摘のように、あるいは先を促す相槌のようにアリオトは言った。ミザールは頷く。
「曾祖父の――学者の血筋ですから。長年の研究の成果を、吟味もせずに捨ててしまうのは躊躇われます。でも、全員が全員そうというわけでもなくて」
実際、処分してしまおうかという話が身内の中で出たことがある。そのときは圧倒的多数で却下されたけれども、いついつまでも保存派が優勢でいるとは限るまい。
解読を試みてはみた。念のためにと異国の言葉を調べてもみた。文章を成立させることは、けれども結局、できていない。読み解けない自分たちの不甲斐なさを嘆いたものか、慎重すぎる曾祖父を恨んだものか、……後者が正しいような気はするが。長持ちするようにと魔術までかけておきながら、継承者が読めないようにしておくのがそもそも不可解なのだ。後世には残したかったが、自身の子孫には知られたくなかったのだろうか?
渡された帳面を開いたり眺めたりしながら、青年はしばし考える風だった。
「暗号術書では?」
「……暗号術?」
「書術の一種です。例えば」
最初のページを開き、冒頭を示す。それから帳面を閉じて、指先で表紙に幾つかの文字を綴った。指を放した一息後に本全体が淡く光り、石を投げ入れた泉の水面が静まるように引いた。何かしらの術が、確かに働いたらしい。
再び開いて、青年はとりあえずこんなところかというような顔をした。覗き込むと冒頭部分の文字列は先ほどとすっかり違っていた――ただ、言葉になっていないことに変わりはなかった。
娘は目を円くした。書術は聞いたことがある。歌うことにまつわる歌術のように、書くことにまつわる魔術だったか。まじないの言葉を紙の札に書きつけて呪符とするのもその一種である。だが、今のは……?
「普通に書いた文章に術をかけて、複雑な暗号を容易に作ったり、解くのに手間のかかる暗号を、術を介してすばやく復号したりするんですよ。鍵さえわかれば、自力で解読する必要はない」
そこまで説明して、そういえば、とアリオトは手を打った。
「主に西国で発達したものだそうですから、この辺りでは使われない技術なのかもしれません」
ミザールは目を見開いた。得心が行った。
「西国です。ドゥーベの生まれは」
「ああ、なら、きっと――ドゥーベさんの感覚では、わざわざ教えるまでもないことだったんですね」
これらが術書であることも、術によって復号できることも。
――先入観というものは、研究の最大の敵なのに!
「ミザールさん?」
「すみません、ちょっと……そんなことで、埋もれるところだったのかと思うと」
溜め息が吐かれた。呆れではない。おかしなことかもしれないが、感銘に近かった。
研究そのものにおいては囚われぬよう心がけていたとしても、これは盲点であったかもしれない。うっかりしても仕方のないことと言えるかもしれない。ただ、無理もないミスだからといって、何かが埋め合わせをしてくれるわけでもない。
今、教わらなかったら。暗号術というものを知り、それではないかと思い至るのは、一体いつになっただろう。その日が来る前に処分派が優勢になったかもしれない、と考えるとぞっとしなかった。
問題は鍵である。子孫に読ませるつもりがあったなら、子孫が知りうる言葉を鍵にしただろう。
「さっきは何で試したんですか?」
「フェクダ。魔姫の名を」
「フェクダ……?」
反復には困惑が混ざった。魔姫の名、それらしい候補ではある。が――。
……いや、つまり。
「フェクダでなければ、メラク、アルカイドの本名ベネトナシュ……でも、仲間の名はご存じないんでしたね」
「ファド、はどうですか」
挙げた名前は、詩人の知識にはなかったらしい。問いかけの視線を受けて続ける。
「フェクダの愛称だと思います。メグレズはそう呼んでいました」
そういうことだろう。メグレズが馴染んでいた呼び名。『フェクダ』が変名であったのかもしれないが、であれば必死に隠す必要もなかったろうし。
それだ、と試す前から確信した表情で、青年は指を表紙に当てる。娘は『ファド』の綴りを一字ずつ述べた。
「当たりです」
開いたページに目を走らせると、アリオトは微笑してそれを差し出した。受け取って、ミザールは食い入るようにみつめた。
見慣れた筆跡の文字たちが、今は意味を成して並んでいる。最初のページも、次のページも、一気にめくって中頃のページも。曾祖父が追究し続けたことの記録。これも、これも――。
二冊目を引き抜く。ファド、と青年がしたと同じように綴れば、先ほどと同じように光がこぼれる。三冊目もそうなった。鍵は全て、共通らしい。
「予言の精度。神託に背いた例と、その結果。生者がかけた呪いを解く方法、死者を宥めて祟りをやませる方法。儀式の変遷……。奉納としての芝居、『見做す』風習の呪術的効果。……人身御供が廃止された例と、その後の変化……」
青年にもわかるように、口に出して要点を述べていく。一見多岐に渡る研究が、実はある一点に集約していることを、感じ取るのは容易かった。
感嘆の息を青年が吐いた。
「魔姫を死なせずに済む方法を探していたんですね。フェクダが討たれた後も」
聖姫に討たれる運命の変えようはないものか。正義と悪の戦いを演じるための、別の方法はないものか。少女たちの人生を供物とするこの儀式そのものを、終わらせることは叶わないものか。
仲間を救うため、ではない。最初はそうだったとしても、それは叶わなかった。間に合わなかった。ずっと早い段階で、ファド――フェクダは宿命に殉じてしまった。
だが、魔姫はこれからも現れる。百二十年経てば次の犠牲者が出る。悪の汚名を着て殺される少女が出る。続けたのはそのためだ。遙か先の世にまた現れるはずの、未来の魔姫やその仲間のために。
脈が速く、強くなるのを感じた。胸が膨らんでいくような、同時に締めつけられるような感覚を、分析するのは難しかった。
謎が解けた爽快感のような。
秘密を暴いた興奮のような。
求める答えの遠さに、果てしなさに呆然とするような。
一人黙々と挑み続けた日々を、想像して切なくなるような。
誰にも知られぬまま破棄されたかもしれないことに、背筋が寒くなるような。
「みつかったんでしょうか。答えは」
「たった一人が生涯をかけたぐらいでわかるものではないでしょう」
詩人の呟きに、学者一家の娘は否定的に応じた。
同じことを調べようとした先達はいたかもしれないが、その成果を曾祖父が参照することは難しかったろう。曾祖父のように秘匿していなかったとしても、大っぴらにしてもいなかっただろうから。
「……ありがとうございます、アリオトさん。受け継ぐべきことが、わかりました」
帳面をそっと閉じる。わたしの好奇心を満たす以上のことができてよかった、と青年は冗談のように応じた。
解きほぐした帳面を片づけて、二人は教室に戻った。研究室に、というよりもあれらの帳面が目につくところにいては、そちらが気になって客人と話すどころではなくなりそうだった。
この研究を自ら受け継ぐかどうか、まだ決断はできないと、そこは冷静にドゥーベの曾孫は考えた。まずは全体に目を通して、概ねを把握することだ。様々な方面から可能性を探って、少しでも希望を、糸口をみつけたか。有用なものは見出せずに終わったか。あるいは、この運命に抗ってはいけない、魔姫は犠牲になる他ないという結論に、ひょっとしたら至っているかもしれない。
それから――自分自身が継承するか、身内の誰かに委ねるか。追究するべきではないことであったと判断して、打ち止めにするか。いずれにしても、散逸してしまわないように気を配ることにはなるだろう。
次の魔姫が現れるまでに、解答を得られればよいと思う。そこまでは行かずとも、有力な仮説を立てられれば。そのときまでに間に合わなければ、さらにその次、もう百二十年の後までに。
しかし、今後研究が滞りなく進み、見事方法を発見できたと仮定したところで、達成度とはまた別の懸念があった。
「次の魔姫の時代まで、この研究を伝えていけたとしても……次の魔姫に、それを教えることができるでしょうか」
魔姫がどこに現れるかはわからないのだ。場所という意味でも、血筋という意味でも。出自が謎に包まれているあまり、異界からの侵略者だと言われた者さえいる。特定の土地に、あるいは特定の一族に、生まれるものだと決まっていれば、少しは楽になりそうなものを。
「それは我々の――放浪者の役目ですね」
吟遊詩人が胸に手を置く。
「魔姫を捜して方法を伝え、あるいはここへ導く。わたしの、あるいは兄弟弟子の、遠い弟子たちに託しましょう。あなた方が研究を守るなら」
「守ります」
学者の娘は頷いた。
魔姫の仲間であり、かつ学者であったドゥーベだからこそなしたこと。その事情を伝え聞いた自分たちだからこそなせること。なすべきこと。メラクが歌を残し、アリオトたちが伝えていくように。
「そうだ、アリオトさん。メラクさんの鎮魂歌を、聴かせていただけませんか」
今日がドゥーベの命日なのだと告げれば、アリオトは目を瞬いて、巡り合わせですね、と微笑んだ。
わたしが死んだ日に嘆かないで。わたしを悼んでいると知れたら、あなたたちが生きにくくなる。嘆くなら、あなた自身が死ぬ日を。わたしを知る人が、本当を知る人が、一人いなくなるその日をこそ。
聖姫との決戦を控えて、魔姫はそう言い残したという。同じ月の同じ日に没する人間は少なからずいるだろうに、そこから足がつく可能性など万に一つだろうに。そうまで警戒するのが、曾祖父の属した仲間たちだった。解散後のアルカイドは、少々違ったようだけれど。
ドゥーベの命日であり、フェクダの命日の代わりである、今日この日。アリオトがここを訪れて、ミザールが研究の内容を知ったのが、他でもないこの日であるとはなかなかに運命的だった。
青年は竪琴の鞄を開けた。娘は目を閉じ、宿命に殉じたかつての少女とその仲間たちに思いを馳せた。
<End>