帝国は世界の中心であると一般に見()されている。帝国の北にある国々は北国、南にある国々は南国、東にある国々は東国、西にある国々は西国と呼ばれ、自らもその呼称を用いる。西国で「東」と言えば帝国よりも東のことで、すぐ東に隣接している帝国のことではない。

 〈金烏が羽を休める国〉は西国の一つである。ここで言う〈金烏〉とは太陽のこと、太陽そのものである巨大な金色の(からす)のことだが、〈金烏が羽を休める国〉の略称もまた〈金烏〉となるのは仕方ない。かつては天にも届く霊木が生えていて、太陽がその(こずえ)で羽を休めていたという伝説が国名の由来であった。その霊木は力自慢のために倒されてしまったというが。

 〈金烏〉に生まれたセディカの祖父は、家を飛び出し、国を飛び出し、大陸中を渡り歩いた。本当に「大陸中を」渡り歩いたのかどうかは本人しか与り知らぬことではあるが、少なくとも帝国の西域を旅したことは確実で、祖母と出会い、母を産ませた。チオハ家といえば〈高寄と高義と高臥の里〉では息の長い名家なのだ、しかし自分は安住を自ら捨てて自由を取ったのだと語っていたという祖父は、祖母にも縛られずに旅に戻った。

 混血の私生児である母が、父の積極的な意志なくして娶られたはずはない。混血の私生児を娶ったことによる風当たりの強さを思い知る前は、父は母を気に入っていたことになる。そうして、セディカが生まれた。父方の祖父母と母方の祖母からは帝国の血を、母方の祖父からは〈金烏〉の血を受け継いで。

「――違うよ!」

 キイが金切り声を上げた。

「帝国の血の方が濃いもの! 〈金烏〉の血を引く帝国人だよ! 『帝国の血を引く』は違う!」

「そういう解釈も、できなくはないけど。帝国の血の割合が敢えて小さい人を欲しがるのも不自然な気がするし、そもそも割合に(こだわ)りがあるならはっきり言うんじゃないかな」

 冷静な口調でジョイドが言った。

 二十歳に満たぬ、帝国の血を引く者。

 セディカ以外の該当者がこの里にいないとは限らないけれども、無論、当然、セディカとしては自分を思わないわけにはいかない。スチェもそうだったのだろう。

 スチェは実家の両親を呼びに行ったところだったという。両親が自宅を空けて薬屋の(やしき)で今夜を過ごせば、ジョイドの護符を一枚節約できるからだ。使用人を置くような家なら主人一家だけを招いても意味がないけれど、スチェの実家はそうではない。

 薬屋に戻る途中で、〈霊王〉の盆に遭遇し。記されていた要求を知って。その場にいた人々の反応を、見た。

 子供たちの家族は(おおむ)ね寺院に集まっているはずではあるが、イッシャとカンの親がそうであったように、用事があって来られなかった者もいた。同居の家族でなくとも、身内や知人の子供たちを大事に思う者もいた。直接的な縁がなかろうと、子供たちを差し出すなどとんでもないと考える者もいた。対岸の火事と流す者の方が目立たなかったのだ。そして――。

 スチェは行き先を変えて寺院へ報告に向かった。その両親は――セディカから見ればこちらは従伯母(いとこおば)夫妻だ――予定より急いで薬屋に向かった。一刻も早く事態を伝えて備えさせねばならないと、その様子からは判断されたのだ。

 広場にいた人々が。あるいは、話を聞いた人々が。

 セディカに気がついたら。

 それとも、他の該当者に気がついたら。

 もしくは、該当者を探し始めたら。

「帝国人か」

 役人の声がして、セディカははっとした。

「では、わたしは――君を差し出すよう、指示しなければならない」

 震えるよりも、心臓がどくどくと打ち始めた。恐怖よりも驚(がく)と混乱が先んじているらしかった。嫌だでもなく、助けてでもなく、どうしよう、という思いが渦巻いて息が詰まりそうになった。

 正直なところ、今の今までセディカにとっては人事だったのだ。自分が九歳に満たないわけでもない。キイにとってのイッシャとカンのような、泣いて抱き締めたくなるような子供がいるわけでもない。子供たちが犠牲にされかけたのは自分を危険に(さら)さぬためなのだと、頭では理解していても、結局は――人事だった。……のに。

 それが狙いか、というのは推測だが。……それが狙い、なのだろうか。子供たちを()()せと要求されて苦悩してきた後では、一人でよい、という代案は譲歩に聞こえる、が。そのため――だったと? そうまでして、セディカを――欲しがっていると……?

 役人も心苦しさを押し殺しているようだったが、見ているこちらが辛くなるほど、マオのように追いつめられているわけでもなかった。が、それは追撃が減っただけのことだ。役人に対してすまなさを感じずには済んだにせよ、放り込まれた状況は変わらない。

「一人で済むなら――」

 きゅう、と破裂しそうな心臓が引き絞られた。今度は――トシュの声だ。

 恐る恐る、首をひねる。目が合った。

 青年は――にやりとした。

「守りやすいな」

 ふっ、と極限の緊張がほどけるのを少女は感じた。一度唇を引き結んで唾を飲み込み、みつめ返す。

「守ってくれる?」

「任せろ」

 自信に満ちた返事があった。

 院主にはトシュが手短に話し、元々の作戦も続行してほしいと伝えた。里全体が報復の対象になる可能性は変わらないし、里の人々を盾に脅されては何もできないからだろう。

「予定通りっちゃ予定通りだ。(むし)ろ偽物は一人でよくなった。ただ、こいつを差し出すことを、大々的に知らしめなきゃならなくなったな」

 〈通天霊王〉の要求が知れ渡ってしまったのだから、それにどう対応するつもりかも知らせねばなるまい。元より、セディカもそうであるように、里の人々はみな当事者なのだから、知る権利は最初からあったわけである。

 トシュは次にはジョイドが詰めていた部屋を覗いた。

「事情が変わった、こいつは借りてく。護符は、そうだな」

 ジョイドを親指で指してから、半秒ほど考えて、髪を一握り雑に抜いた。瞬時に針金のように硬質化したそれを口の中に放り込み、がりがりと噛み砕いてふっと吐き出す。

「きゃ」

 セディカは場違いに声を上げてしまった。僧侶たちもざわめいた。トシュの手首から中指の先までほどの大きさの、小人のような猿がぞろぞろと現れたのだ。

「日暮れ近くなったらこいつらに渡してくれ。南の方から人のいる家を探して貼ってく。あ、地図を見せながら目標の家を指定してくれてもいいが」

「では、そうします。目標が定まっていた方が、恐らく、早いのでしょう?」

「その通りだ、じゃあ頼む。悪いが一々、貼る必要がなければ別の家でいいとも言い聞かせておいてくれるか。自力で応用を()かせられる頭はねえんだ」

 最後に先ほどまでセディカがいた部屋を開けると、顔を覆ったキイをカンの母親が慰めていて、キイの様子に(おび)えている子供たちはイッシャの母親が(なだ)めていた。使用人たちの姿はなかったが、これは大分前からである。スチェがそうしたように、各々の家族を呼びに行ったのだ――寺院に、この部屋に、避難させるために。イッシャの母親が僧侶を捕まえて相談し、この部屋に招き入れる分には、また食料と寝具代わりになるものを自ら持参するならと許可を得たのだった。これでもう二枚、護符を節約できる。

「キイだったな、おまえも来るといい。セダの無事を見ておきたいだろ」

 そう聞くや否や(はじ)かれるように立ち上がってすっ飛んできたから、抱きつかれるのではないかとセディカは思った。

 トシュとジョイド、セディカ、スチェとキイ、それに役人も外に出た。ジョイドは鷹に姿を変えて飛び去った。前にも見たことのあるセディカは驚かなかったが、数秒置いて、よかったのだろうかと思った。鷹になれるのは方士だからではなく、鷹だから――であるはずだが。

 少ししてジョイドは戻ってくると、広場に向かわず薬屋に直行するよう告げて、今度は雲に乗って飛んでいった。盆を見た人々に気づかれたのだ――セディカが、薬屋の娘が、帝国から来た人間であると。

 すたすたと歩きながら、トシュはふと言った。

「そうだ、服を変えとくか。捧げ物っぽく」

 これは着替えろということではなく、セディカが今着ている服を仙術で変化させるということだ。

 それでこの後のことを考えたセディカは、また違う方向での緊張が募るのを感じた。

「……トシュ、あの」

「うん?」

「……あれ、できる?」

 指を鳴らそうとして止めたトシュを、どう言えばよいのだろうと迷いながら見上げる。できない、ということもないと思うが。

「あの……すごく冷静になるやつ」

 店の前に人(だか)りができていた。入り口はぴたりと閉まり、ジョイドがそれを背に立っていて、それだけでセディカには十分な守りに見えた。

 暴徒化した人々――とは、言えなかった。ジョイドが既に仙術か舌先で鎮めてしまったということかもしれないけれど。朱塗りの盆を神輿のように高く差し上げながら押し寄せてきた時点では、きっと興奮状態にはあっただろう。ジョイドの他に、先ほどまでは寺院の見張りに立っていたのだろう兵士もいた。スチェの知らせを受けた役人が、トシュか院主に取り次ぐより先に、まず第一に派遣したのだ。暴動になっていれば力尽くで抑え込んだのかもしれないが、今のところは険しい顔で目を光らせるに(とど)まっていた。

「道を開けてください」

 凛とした声で、セディカは呼びかけた。ざわめきが起こり、人の群れが割れた。

 セディカの衣服は赤くあざやかな、絹か繻子のような光沢のある、由緒ありげなデザインのものに変わっていた。ケープの襟は引き締めるような緑であった。ケープの下から覗く赤は角度によっては黄色に見え、赤と黄色ではあるが玉虫色を思わせた。スカートには花柄が織り出されていた。スカートの内側には金色のズボンを穿()き、薄いピンクの靴にはやはりつやがある。頭の鉢には細い金の輪がぴっちりと()まり、襟と呼応するような翡翠を散りばめ、凍りつくような真珠を所々に下げている。

 その左右、一歩後ろに、トシュと役人が付き添っている格好だった。スチェとキイはもう数歩後ろにいた。

「〈通天霊王〉への捧げ物、今年はこのテュール嬢と決まった」

 役人が告げた。父の姓で呼ばれたことにセディカは不満を覚えたが、セディカの姓は父の姓なのだから致し方ない。

「家族に別れを告げに参りました。邪魔立てはなさいませぬよう」

 その極度に事務的な口調は人々を困惑させただろう。まるで感情というものを有していないかのような、異様なほどの――落ち着き。

 これがつまり、トシュに頼んだ術の効果だった。こうでもしなければ、どんな醜態を曝すことになったか知れたものではない。

 後はしずしずと中に入ってしまえばよかった。そうするつもりだった。だが、店の――自宅の前に詰めかけている人々を見渡した少女は、……何か、もう少し、言ってやりたくなった。

「……わたしは、帝国にいた頃、西国の血を引くために(さげす)まれました。今、この〈金烏〉にあって、帝国の血を引くために、死ねと言われます」

 予定にないことを言い始めたセディカを、だが、トシュも、他の誰も、止めようとはしなかった。

「わたしがこのお役目を受けたのは、帝国の血を引くからではありません。チオハの人間だからです。恩を知り、恩を返すことを知る、チオハ家の一員だからです」

 大きな家、大きな店、大きな畑。安定した生活。

 〈高寄〉に暮らす一人一人に、あるいは一家族一家族に平等に分けたなら、チオハの主だった家々は取り分がぐっと減るはずだ。身に余る土地を、富を、占有しているのは、里に対する――負債である。

 これはキイだけでなく、従伯父(いとこおじ)からも言い聞かせられたことだ。我々は里に負債を、恩を、返していかなければならないのだよと、裕福な家庭に引き取られた少女が思い上がらぬよう諭したのだった。(もっと)も、セディカの実家も裕福だったので――父親と、引いては帝国と、全く異なる考え方に、父親嫌いの少女は感銘を受けた。

 が――余裕を抱えておかなければ、あの姉弟の母親のような客に、継続的に格安で薬を提供するようなことは難しいだろう。不当な富だとまで思いながら、放棄しないのはそれゆえだ。(つぐな)い続ける前提で犯し続ける悪事。

「あなた方に、恩があるゆえに――あなた方のために、わたしは死地に赴きます」

 一人、また一人、さらに一人。順々に、数人と目を合わせて。それぞれの動揺を無感動に見届けてから。

 人々の間にできた道を歩み、セディカは店に辿(たど)り着いた。

 客観的に見て様子のおかしいセディカは、家の者たちを戸惑わせた。トシュが術をかけるところにいたスチェとキイさえ、人形のようになったセディカを幾分怯えたように見ていた。

「あー……ちょっと、落ち着かせるための術をな」

 トシュが頭を()いて、術が切れたら反動で泣き(わめ)くかもしれんが、と付け加えた。

 服は戻しておこう、と指を鳴らせば、セディカの赤い服はぱっと元の服になり、頭の金の輪もオレンジのバンダナに変わる。とはいえセディカは特にリアクションも取らなかったが、周りは驚く。

 一同はマオが襲ってきたときに()もったのと同じ部屋にいた。無論、役人と兵士たちは外だ。スチェは邸に来ているはずの両親も気になるようだったが、それよりも話を聞いておきたいのだろう。キイは幾分所在なげであったろうか。

「どのみち、こいつに特攻させやせん。マオのときと同じだ、俺が代わる」

 トシュは手続きの代行か何かのように言った。

「ただ、向こうが名指しでこいつに拘ってるんだとしたら、そう簡単には引き下がらないかもしれねえからな。もう少し手は打っておきたい」

「お願いします」

 従伯父が応じ、それから眉を寄せた。

「人を集めてしまったが。この邸は、危険だろうか?」

 スチェに両親を呼ばせたように、店員や使用人にも家族や誰かを呼ぶよう伝えて、寺院代わりにこの邸に避難させているという。護符を節約しようと考えてのことだったわけだけれども、それで(かえ)って危険な場所に――セディカの付近に――呼び寄せてしまったことになるとしたら。

「そこまで心配しなくても大丈夫だと思いますよ。こんなに持って回ったやり方をしているっていうことは、直接(さら)う自信はないっていうことですから」

 妖怪にしては高が知れているだろうと、ジョイドが根拠をつけて励ました。

「でも、実際以上に力があるふりをして脅かしには来るかもしれない。集まった人たちに恐ろしい思いをさせるかもしれません。妖怪の方は俺らが対処しますけど」

 人間の対応は頼みたいと言われて従伯父は頷く。無論、ここで責任を放棄したがることもないだろう。

「セダの方も別の見た目に変えて隠しておけりゃいいんだが、他人を化けさせるのは――他人の体をいじくり回すのは、安全性的な意味で自信がねえんだよな」

 トシュは詫びるような顔をしたけれども、だからただシンプルに身を(ひそ)めていてほしいと言われて、不親切と感じるはずもなかった。

 他に言っておくことはないかと考えるようにしてから、トシュはセディカを見た。

「いいか。重要なのは、おまえがきちんと引っ込んでることだ。他人に戦わせるのが気になるだの何だの言って出てこられたら台無しになる」

 こくんと頷く。幸いと言おうか、自分にもできることがあるのではないかと考えてしゃしゃり出る余地もない。できることなど、ない。

「よし、じゃ、例によって髪の毛を――そうだな、二本欲しい。それと、庭の土を分けてもらえるか」

「土?」

 訊き返したのはジョイドだった。大穴を掘ろうというのでもなければ構いませんが、と許可しながら、従伯父も不思議そうにしている。

「説明するよ。一緒に来てくれ」

 トシュはジョイドだけに向かって言った。

「で、他の人たちへの説明は手伝ってほしいってことかな。いいよ。俺からも、おまえに言うことがある」

 ジョイドは笑って了承した。

 店の前から去らずにいた人々の前に、セディカは一人しずしずと歩み出た。否、セディカと寸分違わず同じ姿になったトシュである。

「この盆に乗せて、(やしろ)の中へ運ぶのだそうだ」

 役人が幾分納得の行かない様子で言った。

「どなたが、そのように」

「それが、出所がわからない。誰かが思い込みで言い出しただけかもしれない」

「……捧げ方が違うと言って、受け取っていただけぬことはないでしょう。ただ、わたしが逃げ出さなければよいはず」

 豚や羊と同じように繋ぐこと、に執着があるわけではあるまい。セディカ姿のトシュはぴんと背筋を伸ばして、盆の中央に座し、(まぶた)を閉ざした。

 たちまち盆に仕込んであった術が発動し、見えない鎖がトシュを絡め取った。トシュは少しだけ、眉を寄せた。身動きができない――わけではない。来たな、と思ったのだ。

 そうと見抜いていたジョイドが対抗するための護符をざっと描いたので、それを(ふところ)に忍ばせているトシュは、実のところ安全なのだった。術を単に打ち消すのでなく、一旦泳がせるようになっている辺りがジョイドの本領発揮である。じっくり観察して時間をかけられるのならともかく、さっきの今でここまで凝ったことをするのは、トシュには難しいだろう。

 こうした仕掛けを用意しているからには、〈霊王〉は何としてもセディカをこの盆に乗せたかったはずだ。ということは、〈霊王〉の手下か何かが人々の中に紛れ込んでいて、あれこれ誘導してきたのかもしれない。手下か何か、がいるのかどうかも知らないが。

 セディカを待ってかこの場に(とど)まっていた人々は、セディカ――トシュごと盆を担ぎ上げて、川の(ほとり)の社へと(はる)(ばる)運んでいった。持ちやすそうでも担ぎやすそうでもないが、やはり妖術的な仕掛けがあるようで、バランスが崩れることもなかった。こいつらのために体を張るのかと思わないでもなかったが、不当な危機に曝されている事実は減じないのだから、トシュのすることは変わらない。

 社に着き、扉が開け放たれ、盆が上座に置かれた。澄まし返って気味の悪い娘だと誰かが呟いたようだったが、他の誰かはすまないと呟いたようだった。日が暮れる前に急いで帰るよう一同に命じてから、後を頼むと(ささや)いて役人も出ていった。扉が閉じた。

 トシュはじっと社の中を観察した。祭壇の左右に大ぶりな、無骨な燭台があり、誰かが蝋燭を立てて火を灯していた。正面には霊牌があって、古風な書体の金字で〈通天霊王〉と記されている。

 ――さて。

 トシュは緑色の襟に刺しておいた待ち針を抜いた。

 やがて日が暮れた。沈んだ夕日の残()がすっかり夜空から消え去る瞬間を屋内から(とら)えられるはずもなかったが、そろそろかと思った頃、ふっと香り高い風が吹き込んだ。

 おいでなすったなと意識を集中しながら、その薫風を奇妙に思う。話に聞いてはいたけれど、何と言おうか――随分、本物らしいような気がして――このような香を立てることが偽物に可能だろうかと、少しく、疑問を覚えたのだ。とはいえ、香りに造詣が深いわけではないから、どこがそんなに本物らしく感じられたのかはよくわからなかった。

 ずしんと、背後に質量を伴う気配が立った。薫風への疑問は脇に置くことにして、

「わたくしをご所望とか」

 トシュは振り向きもせずに言った。

 口を利くとは思わなかったか、少なくとも冷静に喋るとは思ったのだろう、気配は驚いたようだった。

「何故わたくしをお求めになりました」

 畳みかけるように続ける。ややあって、浅知恵を笑うような声が応じた。

「花嫁にでもなれると思うたか。食らうのよ。己が冥福を祈るがいい」

「何故、わたくしを?」

 繰り返す。

「帝国の人間がそんなにも珍しゅうございますか。人身()(くう)を求めた以上、二度と再び、信頼を得ることは叶いますまい。九年かけて手(なず)けた狩り場を捨て、年に十頭の豚と羊を捨て、人食いとして退治される道を開いてまで、わたくしを食らいとうございますか」

「引き延ばすではないか」

 後ろの声は鼻で笑った。

「薬屋の娘なら、薬らしく食われよ」

 言うが早いか、妖怪は腕を振り下ろした。頭を狙ったか首を狙ったか、いずれにせよ。

 ガッ、とトシュはその腕を鉄棒で受け止めた。

 両端に(たが)を嵌めた、伸縮自在の鉄棒。先ほど手元に用意しておいた待ち針の、真の姿。マオがセディカを閉じ込めた倉庫の、錠前の鍵穴を(ふさ)いでいた銅を、一打ちで崩した――尤も、あれはトシュの術であって、この武器自体の能力ではないが。

 次の瞬間、トシュは両手で棒を握ると、力いっぱいにその腕を殴り返した。その半秒後にはピンクの靴で盆を蹴って飛び上がり、体をひねって向き直りながら、雲を起こして天井すれすれに(とど)まる。見えない鎖は蜘蛛の糸のようにあえなく切れた。

 妖怪は金の(よろい)(かぶと)を身につけていたが、実践向けというよりも儀仗向けと見受けられた。赤い帯がよく映えていた。目も歯もぎらぎらと光るようだった。殴られた右腕を押さえてはいるものの、負傷したというほどのことはないだろう。

 一(べつ)して、ニッと笑う。

「ごめんねえ、先に食べちゃったあ」

 セディカの顔をした少女は、セディカがしない顔をしてぺろりと指先を()めた。

 敵は――唖然とした、ようだった。

「何……だと?」

「あんたが異様に拘るからさあ、何事かと思ったんだけど。何だったの? あの子何か特別なことあった?」

「あの娘を食ったのか?」

 信じられないという顔と声を受けて、ニタァと笑みを深くする。

「だからあたしがこの姿になってるんだよ。可愛いでしょ?」

 ――という喋り方は、セディカを再現したのでもなければ、トシュの素でもないし、トシュが考案したのでもない。大陸の方々を旅して回る間に出会った、(ない)()見かけた少女のうちで、セディカから遠いキャラクターの少女を選んで真似たのである。

 食べた相手に成り済ますとは、妖怪ならばよくあることというものではなかったが、今の言い方で通じる程度に知られた手法ではあった。本人を食べなければ成り済ませないのだから、ただ単に成り済ますよりも妖術としては下級であるのだが、無論、被害はこちらの方が大きい。

「その言葉、真なら赦さんぞ! わしの獲物を(かす)め取りおって!」

 妖怪は喚いた。

「おまえは何者だ!」

「薬屋の娘だよ。今日からね!」

 高らかに叫びながら、とりあえず騙せたようだと思う。この分なら、本物のセディカを探しに出ていきはしないだろう。

 ここからだ。

 怒りに任せてつかみかかってきたのをいなし、手に一発見舞って(すみ)の方へ逃げる。

「あんただってゲスい手使って捕まえたんじゃないの。里の子供全員とどっちを取るかなんて脅して、それもぎりぎりになって『じゃあこいつ一人にしてやるよ』とか言い出すんだからやらしい、おおっと」

 また突進してきたのをまたひらりと避けた。今度も素手だ。武器は持参していないらしい、戦闘になるとは思わなかったのだろう。

「自分が何をしでかしたかもわからん小娘が!」

 怒声はほとんど自棄(やけ)のようだった。

「食っただと! 不老長生の妙薬を!」

「――えっウソ」

 気の抜けるような口調で応じながら、トシュは内心、目を(みは)った。

 不老長生の、妙薬?

「何の根拠があってそんなこと思ったのよ? 思い込みで悪者扱いされるとか(たま)ったもんじゃないんだけど!」

 腹を立てた芝居が、成功しているかどうかはわからない。逸る気持ちがはっきりと自覚されたからだ。向こうも頭に血が上っているようだから、こちらの演技が拙くとも気づかれないかもしれないが。

 不老長生の妙薬。セディカがそんなものに見えたというのなら。そんなものに見える原因がセディカにあるのなら。

 食べたくなるような理由が、セディカ自身にあるのなら。

 マオの非も、軽減されるような気がする――。

 鉄棒を握り、構えを取って。冷静に、とトシュは自分に言い聞かせた。何としても――詳しいことを、聞き出さねばならない。

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