「なあ」

「うん」

「……引き上げるタイミングを見失ってるんだが」

 トシュがぼやけば、ジョイドは何だか微笑ましげに頬を緩めた。

「このまま朝まで付き添ってあげればいいんじゃないの。それまで見てても俺らが何も気づかなかったら、本当に何の異常もなかったってことでしょ」

 既に再び、少女は眠りに就いている。ナイトキャップで額をすっかり隠し、掛け布を口の上まで引き上げていて、閉じた目と鼻が覗いているきりだ。暑くなる時期だから寝具は薄手のものではあるが、それでもこれでは暑いのではなかろうか。

 亡霊との接触は、一見、少女の体に害を与えてはいないようだった。顔が真っ白になっていたり、呼吸が細くなっていたりというわかりやすい異変はない。とはいえ、苦手分野のことだ、確信は持てない。国王に少女を害する意図がなかったとしても、あの木の精たちとて悪気はなかったわけである。

 一晩くらいは眠らなくても平気だし、不満はないが、腑に落ちない。(せっ)(かく)別々の寝室を使えることになったというのに、何故少女の寝顔を見守りながら夜を明かさねばならないのか。

 腑には落ちないが、まあ、言い募るようなことでもない。それよりも、とトシュは真面目な顔になると、自分の額に手をやった。

「あれは本当に、あいつが言ったような古傷だったか?」

「だったと思うけど」

「何か変な契約をさせられた痕とかじゃねえよな」

「ああ、そういうことね。それは心配ないよ」

 ジョイドは請け合った。

「セディに傷一つでもつけたら、ただじゃおかない約束だもんね」

「それもあったか」

 嘆息する。守る、だけで十分だったところに、余計なことを付け加えた。それを言うなら〈誓約〉を立てたこと自体が余計なのだが。

 父親から力を受け継いだ、という言い方をすればどちらも同じになるが、トシュとジョイドではその力の質が違う。トシュが何かを行うことに向いているのに対して、ジョイドは何かを感じることに長けている。鷹らしく目が()き、犬らしく鼻が利き、人間が第六感と呼ぶような感覚も鋭い。あの傷痕によからぬ気配がまつわっていればわかるだろう。

 ジョイドはジョイドで引っかかることがあるようだった。

「セディの前では言わなかったけど。王様はどうして、ここの僧侶じゃなくて俺らに頼ったんだと思う」

「勝てそうにねえからだろ」

「……そう来たか」

 この寺院の、または〈錦鶏〉国内にある他の寺院の僧侶たちには、雨を降らせるだけの法力はなかったわけである。今の国王は偽物である、と見抜いた僧侶もいない。単純に考えて、偽国王の方が強そうだ。

 眠る少女にちらと目をやってから、ジョイドは声を落とした。

「俺が思ったのは、失敗しても惜しくないからかもしれないってこと。自分の可愛い国民が、自分の(かたき)を取ろうとして返り討ちに遭ったりしたら辛いじゃない」

「犠牲になってもいい人材、ってか」

 少女の前で言わないわけだ、と旅人は口元を(ゆが)めた。

「関係ねえよ。勝てばいいだけだ」

「ご(もっと)も」

 ジョイドはあっさり笑って認めた。

 トシュはことさらに伸びをした。

「つうか、今のうちに情報収集しときゃいいのか」

「俺が行く、おまえが行く?」

「俺が行くわ。こいつを見ててくれ」

 それが妥当な分担だろう。ジョイドの目に敵う気はしない。

「山神に土地神に、……国の守護神はいるのかね? まだ新しい国だろ?」

「史書には出てこなかったと思うな。あ、行く前にさっきの二冊取ってきてよ」

「好きだな、おまえ」

 さっさと背を向けて出ていきながら、了承の印にひらりと手を振る。心配性な一面を覗かせた相棒を、早いところ安心させてやろう。

 山神や土地神は言わば下級神で、天の神よりも卑近な存在である。地域によっては神と(とら)えず、精霊と見()していることもあった。早い話が、仙術で呼び出すことが可能だ。場合によっては、使役することも。

 可能といっても無論、術者の力量に左右されるわけではあるが、トシュにはいささか(ずる)い裏技があった。即ち、召喚の呪文に祖父の名前を入れ込むのである。妖怪には父の名前が効くように、こういった下級神には祖父の名前が効く。尤も、かつて祖父が力任せ腕任せに()き使ったためであって、大抵は(おび)えて飛び出してくるから、孫として謝る破目にもなるのだが。

 人間や動物と同じように寝たり起きたりするわけでもないから、夜中に呼び出すこと自体は無礼や不敬や酷使には当たらない。トシュはまず寺院がある山の神を呼び、次に城下町まで行って土地の神を呼んだ。城下町といっても、それが〈錦鶏〉のほぼ全てである。あの寺院などは飛び地のように離れて建っているけれども、町は一つきりだ。

 山神は山の神であり土地神は土地の神であって、その山やその土地に人間が暮らしていようと、決して人間のための神ではない。とはいえ、人間が暮らしていれば、大抵気に懸けてはいるものだ。山神は山へと彷徨(さまよ)(きた)った亡霊が確かに国王であることを保証してくれたし、土地神は国王の密かな死について語り、偽物の現状を教えてくれた。そうしたことを把握してはいても、罰を下すようなことはないわけだが。

「裏が取れたぜ。国王陛下に俺らを推挙してくだすったのはここの山神だとよ」

 寺院に戻ったトシュは、ジョイドにまずそう告げた。

 通りすがっただけでセディカを拾った二人であれば、自分たちを見込んで助けを求めてきた国王を無視するはずもなかったが、国王を無条件に信用したわけでもなかった。本物の国王は横暴であった、偽物は打って変わって慈悲深い君主である、というような話が聞かれるようなら考え直しただろう。そういった懸念は、だが、晴れたと言ってよい。よそ者なら死んでも惜しくないのだろう、などと穿(うが)った見方をする必要も、これでなくなったはずだ。何せ神が背後にいるのである。

 問題の方士にトシュなら太刀打ちできるだろう、と山神が判断したのは、山の獣たちとの戦いぶりを見ていたからではなくて、恐らく父親を見知っているからだ。かつてあの虎たちをよく訪ねていた、あの狼の子ならばと。尤も、偽国王がこの山に足を踏み入れたことはないそうで、そちらの腕前はわからないという。国王に成り済ます前には来たことがあるかもしれないが、成り済ます前なのだから同定ができない。

 一方で〈錦鶏〉の土地神は、方士が雨を降らせたところも石を金に変えたところも、国王を井戸に落としたところも、国王と瓜二つの姿に変身したところも見ているものの、トシュのことやトシュの父親のことは特に知らない。トシュと比べてどうか、という相対的な見当はつけられなかった。それでも、本物の国王とは見た目からにおいに至るまでそっくりになっていて、人間は勿論(もちろん)、妖怪にもなかなか区別がつかないだろうと聞けば、腕が立つのだろうとは察せられる。とはいっても内面まで写し取れるわけではないようで、時たま襤褸(ぼろ)が出そうになると、弟とまで思った方士に裏切られた悲しみで変わってしまったのだろう、と思わせるように誘導しているとか。

 一方で〈錦鶏〉の土地神は、方士が雨を降らせたところも石を金に変えたところも、国王を殺したところも、国王と瓜二つの姿に変身したところも見ているものの、トシュのことやトシュの父親のことは特に知らない。トシュと比べてどうか、という相対的な見当はつけられなかった。それでも、本物の国王とは見た目からにおいに至るまでそっくりになっていて、人間は勿論(もちろん)、妖怪にもなかなか区別がつかないだろうと聞けば、腕が立つのだろうとは察せられる。とはいっても内面まで写し取れるわけではないようで、時たま襤褸(ぼろ)が出そうになると、弟とまで思った方士に裏切られた悲しみで変わってしまったのだろう、と思わせるように誘導しているとか。

「おまえって天の神が嫌いな割に、地上の神は信用してるよね」

「狼が天をありがたがるかよ」

 ジョイドの言葉に、トシュはいささかずれた返事をした。巨大な体を持って生まれ、飢えを(しの)ごうとしたにすぎない〈世界狼〉を、天の神々は脅威と断じて拘束したのだ。

 天の神々への不信はさておき、山神や土地神、森の神、川の神といった地上の神々は、実際のところ、情報源という意味では大分頼りになる。何の思惑も解釈も混ざらない、正確で純粋な事実をよこしてくれるのだから。話を聞くというよりも、記録を照会するようなものだと言うべきか。

 ただ、逆に言えば、こちらから訊かなかったことを、気を利かせて教えてくれることは少ない。自分の山なり自分の土地なりで起こったことしか把握していないという弱みもある。確実な情報が得られることは、必要な情報、有用な情報が全て出揃うことと等値ではない。

 青年たちは少女を起こさないよう注意しながら、わかったことを整理したり、推測をしたり相談をしたりして過ごした。どうせならあの亡霊が戻ってきて直接委細を話してくれればよいのに、それらしい気配は感じられない。少女の身にも相変わらず異常が感じられないのは結構なことだったが。

 夜が明けてきた頃、というのは山の西側にいたのではわかりにくかったが、トシュは再び寺院を出て雲を飛ばした。

「熊どの、朝から失礼。虎どのに話があるんだが」

「松の老()のところだと聞いていないか。当分帰るまいよ」

 その話は無論覚えていたが、帰ってこないほどとは思っていなかったから驚く。

「……ひょっとしたら物凄え面倒なことを頼んじまったか?」

「あれは楽しんでいるのさ」

 肩を(すく)めて熊は断定した。

 虎がいれば虎に告げるのが自然であったろうけれども、(こだわ)りがあるわけではない。それじゃあ、と注進先を目の前の熊に変更して、〈錦鶏〉の太子が狩りに出てくるらしいことを伝える。要するに、この山の鳥や獣が獲物として狙われているわけなので。

「義理堅いな。そんな情報をわざわざ拾ってきたのか」

「偶然だよ」

 知ったからには黙っているのも気が引けたのだ。どうせこの山の肉食獣だってこの山の鳥や獣を食べているのだけれども、人間に狩られるとなると不快さが違う。

 手土産は渡したとばかり、トシュは本題に移った。

「思い当たることがあればでいいんだが。五年前か三年前に妙なことはなかったか」

 妙なこと、という漠然とした尋ね方は、山神や土地神には向かない。

「妙なことはなかったが。何を知りたい」

「五年前に〈錦鶏〉に来たっつう方士が、三年前に国王を殺してすり替わったって話を聞いてな。どうやらデマでもないらしいんだが、そいつの正体が今一つわからねえんだよ」

 土地神の見立てでは、人間ではない、という。雨を降らせたのも石を金に変えたのも、人間が修めた仙術ではなかったと。神が人間に身を(やつ)しているのでも、神から遣わされて賞罰を与えているのでもない。神の仕業であれば、他の神を()()()す必要はないからだ。

 だが、どうにも煮えきらないことに、妖怪だ、とすっぱり言い切ってもくれなかった。〈錦鶏〉に足を踏み入れたそのときから人間の姿をしていたし、国王に成り済ましてからはずっと国王の姿でいて、虎だの熊だの狼だの鷹だのといった正体を現したことが一度もないのだという。神たるものそれぐらいは見通せないのか、と期待するのは勝手というものだろう、自分に呼び出されてくれるような相手に対して。

「あんたは何か知らないか」

 ふむ、と熊は衣の中で腕を組んだ。

「五年前か。〈錦鶏〉に住み着いたという妖怪が訪ねてきたな。互いに不干渉で行きたいと言いに来た」

「不干渉?」

「自分がこの山に手を出さない代わり、我らもあの国に手を出さないでほしいと。どうせこっちは人里に興味なぞないからな。了承して終わりだ」

 連れも供もおらず、一人で乗り込んできたというから、腕には自信があるのだろう。その妖怪が例の方士であって、最初から王と入れ替わるつもりでいたのだとしたら、この山の妖怪たちに邪魔されないよう手を打っておいたとしてもおかしくない。山神からはそんな話は聞かなかったが、別段変わったこととは思わなかったのかもしれない。

 場合によっては援護してもらおうと考えていたわけではないが、望んだところで援護は得られないことになる。相手がこの山に逃げ込んだり、猛獣たちに泣きついてけしかけてきたりしないだけ、重畳か。

「妖怪だったんだな?」

「妖怪同士仲良くやろうと本人は言ったよ。――霊獣が妖怪になるものかどうかは知らないが」

 トシュは眉を上げた。

「なるほど?」

 霊獣ならば、年を経るまでもなく化けるまでもなく、霊妙な力を備えているだろう。麒麟は理想の政治を感じ取り、鳳凰は理想の君主を感じ取る。錦鶏は火炎を避けるという。このように何かに特化しているもので、妖怪の力のように汎用的ではない印象はあるが。

 霊獣も年を経て妖怪に変わることがあるのか、霊獣そのものを妖怪の一種と見()して妖怪同士と言ったのか。いずれにせよ、その力や術の性質は、一般の妖怪とはどこか異なるものになりそうだ。霊獣が生息しているわけではない土地の神では、ただの妖怪ではないことは見て取れても、霊獣だとまではわからなかったのかもしれない――国名に反して、この国に錦鶏はいないようだから。

「そういうことは、俺よりも連れの方が詳しいな」

 半ば独り言のように呟いて、口元へ手をやってトシュは考えた。

 意図せず少し間が空いたところで、ふっと熊は息を吐いた。

「調べてどうするとは訊かないが、我々が後で父上に恨まれるようなことはしないでくれたまえよ。目と鼻の先にいておいて見殺しにするような結果になったら、申し訳が立たないからな」

「……そんなに過保護かね」

 父親にとっては、またこの熊やあの虎にとっても、百年も生きていない若造など赤子も同然だろうけれども。

「おまえの父上が人間に惚れたり、子供のために人間に紛れて暮らすだなんて大変なことなんだぞ。我々と対等に付き合っていたことも驚きだというのに」

「虎どのとは同格ぐらいじゃないのか」

 フードの陰に見えた微笑は、事情を承知している、少なくともそう自認している者のそれだった。わかっていないなと思われたのか、誤魔化しているなと思われたのか。

「親父の話はいいんだよ」

 トシュは(あご)を突き出した。

「で――霊獣の、何だ?」

 セディカが目を覚ましたときには、青年たちは引き上げていた。身支度を整えてから訪ねれば、二人は既に作戦会議を始めていたらしく、大分前から起きていたようだと思う。一晩中起きていたとまでは思わなかった。

「朝ご飯の前に一個いいかな」

 立ち上がろうとしたトシュを制して、ジョイドが指を一本立てた。

「ここって〈冥府の女王〉――〈黄泉の君〉の寺院じゃない?」

「ええ」

 正確に言うなら、〈黄泉の君〉を主祭神とする寺院、である。

 一つの寺院に複数の神々が(まつ)られていることはよくあるが、大抵はその中でもただ一柱が主祭神として扱われ、他は配祀神と呼ばれる一歩下がった立場に甘んじる。主祭神になりやすい神もいれば配祀神になりやすい神もおり、〈慈しみの君〉などは人気が高いものだから、主祭神とされることも多い一方で、他の神の寺院に配祀神として追加されることも多い。

 冥府を()べるという〈黄泉の君〉、またの名を〈冥府の女王〉の寺院は、即ち葬送の施設でもあった。逆に言えば、墓地を有して葬儀を執り行う寺院には、主祭神でなく配祀神であったとしても大抵祀られている。〈黄泉の君〉から死者を取り上げられるのはただ独り〈天帝〉のみである――その死者を天上に迎え入れるか、地上において神に任じるという形で。

 なお、この寺院の名は〈神宝多き寺〉といって、特に黄泉や葬送を思わせるものではなかった。こういう場合の「神宝」は神の恩恵や教えや、教えを伝える経典、はたまた僧侶を指すのだったはずだ。即物的な宝を所有していると思われて泥棒に入られることが間々あるので、近年では寺院の名には用いられなくなっていると聞いたことがあるけれど。

「それでね、ちょっと君に頼みたいことがあるんだけど。死者の平安を祈って、神琴の演奏を奉納することがあるのは知ってる?」

「〈慰霊の楽〉なら、一応、()けるわ。譜面は見たいけど」

 元より、神琴は本来、そうした用途の楽器であった。山を越える役には立たないけれども、寺院では本領を発揮する。

「長居することになりそうだからさ。ついでにって言ったらあれだけど、身内の供養をお願いしようかと思ってるんだ。よかったら神琴を弾いてくれないかな」

 ジョイドの言葉に、セディカよりもトシュの方が目を(みは)った。それから参ったなと言わんばかりに頭を()く。

「身内の供養とか目の前で言われちゃ、俺は別にいいわってスルーするわけにもいかねえんだが」

「俺らは普段、(ろく)に墓参りにも行かないからね。いい機会じゃない」

 自動的にと言おうか強制的にと言おうか、トシュも連帯することになったらしい。

 人前で弾くのはハードルが高いようなら、勿論無理にとは言わないけど、とジョイドは言い添えた。何が「勿論」なのか、と山中でのことを少々恨めしく思い出しながら、しかし、セディカは戸惑う。

「それは……その……わたしが弾いて、意味があるの? 本人じゃないなら、本職の人に頼むものじゃない?」

 本来は奉納する本人、または代表者が弾くものだろう。本職の弾き手に代行を依頼することも珍しくはないが、本人が弾かないという無礼を、本職の高い技術で埋め合わせるという意味があったはずだ。

「それはおまえが本人側に回ればいいだろ。お母様とお祖母(ばあ)様も合同で供養すりゃいい」

 暑ければ服を脱げばよいだろうとでもいうような、事もなげな調子でトシュが言った。

 セディカはしばし沈黙した。

「……い、幾ら、かかるの?」

 寺院を通して奉納する。つまりは寺院で儀式を行ってもらうわけだから、本堂の使用料や、神への仲介料が必要になるのだ。弾き手そのものをセディカが務めたとしても。

 もしも寺院がそうした名目で料金を取るのは筋違いだと思うなら、そもそも寺院を巻き込まず、自宅で神への祈りを胸に弾けばよいのである。寺院という神聖な場や、僧侶という修行を積んだ人物や、正式な儀式という形式に、俗世や一般人や気持ち単体とは異なる価値を見出すなら、有償であることに文句をつけるものではない。行き倒れの死者を無償で弔うような慈善とは別の話だ。

 だが、あるべき論を振りかざしたところで、今のセディカでは一銭も払いようがない。〈金烏〉の親戚の元に辿(たど)り着けたとしても、母や祖母の、それも葬儀ではなく何年も経ってからの供養に、セディカに代わって費用を出してくれるとは限らない。今さらと言えば今さらだけれども――食事を始めとする日常生活を助けてもらうのとは、それこそ、別の話だろう。

「それは俺らが出すよ。神琴の弾き手をやってもらうわけだし」

 簡単に言われた。意見を聞かれもしなかったトシュも、眉一つ寄せるでもなく当たり前の顔をしている。

 が、セディカは浮かない表情をしていたのだろう。

「じゃあ――十年ぐらい、ううん、十五年かな。それぐらい経ったら、俺らのために〈慈愛神〉への祈祷を頼んでよ。俺らの無事を祈ってさ」

 やはりあっさりとした提案に、少女は目を(しばたた)いた。今一人の青年が納得したような苦笑を浮かべる。

「十五年後に、俺らを気にする人間が何人いるかわかんねえもんな。まだどこかに腰を据えてもいねえだろうし」

「俺らが一緒にいるとも限らないしねえ。一人になってるかもしれない。そういうところに、神の加護を祈ってもらえると――多分、すごく助かる」

「……十五年後」

 言い換えれば、大人になったら、である。祈祷料を自分で用意できるようになった頃。

 それは確かに妥当な交換であるかもしれず、遠い未来に行うことこそが重要なのかもしれなかった。約束を覚えているとも限らないし、約束を果たしても破っても伝わらないだろうけれど。それとも、方士にはわかるものなのだろうか。誰の祈りが、功を奏したか。

「わかったわ。……ありがとう」

「じゃ、それでいいな。それとな、セダ。もう一個」

 そういう言い方をしたトシュが悪いと思う。これでは神琴の奉納の話が続いているように聞こえるではないか。

 とはいえ、その先を聞けば、違う話であることはすぐにわかった。

「本当にいいの? 別にトシュに付き合わなくたっていいんだよ」

 気遣わしげなことを言うジョイドに、セディカはいささか非難がましい目を向けた。

「ジョイドだって随分熱心だったじゃない」

 錦鶏を意識した豪奢な巫女服をセディカは身にまとっていた。正面から見ればあざやかな紅だが、身頃の背中は孔雀色、スカートの後ろは向日葵(ひまわり)色、たっぷりとした袖の先は瑠璃色だ。ベールは上が金色で、(すそ)に近づくに従って火のようなオレンジ色になっていく。セディカが着ている服を、着ているまま直接、トシュが変えたのだ。

 こうした巫女服がどこかの文化圏に存在しているわけではなくて、それらしいデザインを主にジョイドが考えたにすぎない。巫女服をイメージしたドレスと思った方がよさそうだ。あれだけ細々と口出ししておいて、トシュのことだけ言うのはいかがなものか。

 とはいえ、恥ずかしくはあっても不快ではないのは、着せ替えで遊ばれているようには感じなかったからだろう。ジョイドの関心は明らかに、セディカに似合うかどうかという点にはなかった――錦鶏を(ほう)(ふつ)とさせながら、見る者を圧倒するための派手さと、畏敬の念を起こさせるための厳かさとを、いかにバランスを取りつつ実現させるか、に集中していた。

「中途半端なことをやっても仕方ないからね」

 何も(やま)しいところがない証明のように、ジョイドは至って軽く答えた。こちらはこちらで訳ありげな朱塗りの小箱を携えている。模様に凝ってはいないけれども、控えめにしておこうという意見はジョイドのものだ。

 狩りをしている太子をみつけたとて、気軽に呼び止められるわけではあるまい。小さい国であるからといって、即ち王族と庶民の距離が近いというものではない。それに、太子は供を連れているだろうが、まずは他人の耳に入れずに太子だけに話したいところだ。偽の国王にうっかり伝わってしまっても面倒だし、真の国王の最期を太子は隠したいと思うかもしれない。素性の知れない方士を信用した結果、殺されてすり替わられた事実が、国内や国外や後世にまで知れ渡ってしまってはあまり嬉しくないだろう。

 そうした懸念をつらつらと並べたトシュは、一芝居打つぞ、と最後に口の端を上げたのである。即ち、この巫女服は芝居のための衣装なのだ。太子に話を聞かせるため、それも余人を遠ざけて太子一人に聞かせるための。

「……(ばち)が当たったりしない? 寺院で、その……」

 嘘を()くなんて、と口にしてしまうのは何だか怖くて途切れたものの、言わんとするところは伝わったのだろう。ジョイドはにこりとする。

「悪戯をしようっていうんじゃないからね。堂々としててよ」

 昨夜の夢で故人からの呼びかけを聞いたので、死者の平安を祈って神琴の演奏を奉納したい――という風に話を持っていって、一行は寺院に(とど)まっているのだった。誤魔化しがあるのは後ろめたいけれども、長居することになりそうだから、とも言えない。長居することになりそうな事情を、太子を差し置いて先に院主に話すわけにもいくまい。

 午後から始めるということに自然と決まり、それまでは本堂で祈りを捧げていたいという希望も()れられ、儀式の後はもう一晩泊まらせてもらう約束がいつの間にか取りつけられていくのを横で聞きながら、セディカは段々、妖怪云々よりもこの舌先の方がよほど恐ろしいような気がしてきていた。一日がかりの大仕事というわけでもないのだから、午前中に終わらせて昼前に()つことも、本当はできそうなものなのだ。快く了承した院主も、神の使徒としての務めを果たしているというより、ひょっとしたら単にジョイドに乗せられているのではあるまいか。

 ともあれ、そこまで話がつくと、トシュは太子を捜しに出ていった。セディカとジョイドは寺院の本堂で、その帰りを待っているところである。それは取りも直さず、太子の訪れを待っているということだ。小国とはいえ、一国の王位継承者の。……あまり考えないことにしよう、緊張が増すだけだ。

「それに、君は俺らに付き合わされてるだけだもの。もし怒られることになったって、責任があるのは俺らだから大丈夫」

 ジョイドはおもむろに進み出ると、奥の壁に、向かって右に、向かって左にと、謝罪のつもりか順に礼をした。飾ってある神像は配祀神のものばかりで、中央は〈黄泉の君〉を拝する場としてぽっかりと空いている。恐るべき冥府の主神は、その姿を(かたど)られることはない。

「死者は等しく〈冥府の女王〉の臣下――でも、恨みや未練に引きずられてこの世に残っていたんじゃ、〈女王〉の庇護を受けられない。恨みを晴らして心が晴れて、王様がちゃんとあの世へ行けるようなら、〈女王〉の御心にも適うと思うよ。そのためならこのくらいの方便は大目に見てくれるんじゃないかな」

 そこまで言って、ジョイドは扉へ目を向けた。顔つきが変わったことに気づいて、息を呑んでセディカも振り返る。心臓の鼓動が急に強まって、(のど)が詰まりそうになった。

 さほど間を置かず、開いたままの扉から、一匹の鼠が駆け込んできた。

「いいぜ、始めろ」

 鼠はほんの一秒ばかり人間の姿に戻ると、セディカの前でパチンと指を鳴らして、ジョイドが(ふた)をずらした小箱に吸い込まれるように消えた。

 指の音を聞いた瞬間からセディカはすっと落ち着いて、来るべき太子を待ち受けた。

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